セーレン・キェルケゴール

セーレン・キェルケゴール

キェルケゴール(別名:キルケゴール)

Kierkegaard, Søren Aabye

1813年5月5日 – 1855年11月11日 (42歳没)

デンマーク 人文科学

セーレン・キェルケゴールの人物情報

デンマークの哲学者・宗教思想家。コペンハーゲンの裕福な商人の家に生まれ、大学で神学を学んだ。婚約者レギーネ・オルセンとの婚約を自ら破棄した後、『あれか、これか』『おそれとおののき』『不安の概念』『死に至る病』などを次々に書いた。多くは偽名で出し、父の遺産を暮らしと出版に使いながら書き続けた。晩年はデンマーク国教会を公然と批判し、42歳で亡くなる。一人ひとりが神の前でどう生きるかを問うたその思想は、20世紀の実存主義に大きな影響を与えた。

同時代の人物

キェルケゴールが生まれた1813年は、オペラの二大巨匠が生まれた年でもある。5月5日のキェルケゴールに続いて、5月22日にヴァーグナー、10月10日にヴェルディが生まれた。5年後の同じ5月5日にはカール・マルクスが生まれている。日本では、適塾を開いた緒方洪庵が3歳上にあたる。

キェルケゴールが42歳で亡くなった1855年11月、同じコペンハーゲンのアンデルセンは50歳だった。日本ではこの年、20歳の福沢諭吉が緒方洪庵の適塾に入門している。

年齢で見る生涯

  • 25歳(1838年8月) 父ミカエルが死去。のちに3万1335リグスダラーの遺産を受け継ぎ、職に就かずに書いて暮らせるようになる
  • 25歳(1838年9月) 最初の本『いまなお生ける者の手記より』で、アンデルセンの小説『ただのヴァイオリン弾き』を酷評する
  • 27歳(1840年9月) レギーネ・オルセンと婚約。翌年8月に指輪を送り返す
  • 28歳(1841年9〜10月) 学位論文『イロニーの概念』の公開審査を終え、10月11日に婚約を最終的に破棄。同月から翌年3月までベルリンに滞在する
  • 29歳(1843年2月) 『あれか、これか』を匿名で出す
  • 32歳(1846年1月) 風刺週刊誌『コルサール』による攻撃が始まる
  • 42歳(1855年5月) 国教会を攻撃する個人誌『瞬間』を出し始める。10月2日、路上で倒れてフレゼリク病院に入院
  • 42歳(1855年11月11日) 死去

作家として本を出したのは、25歳から42歳までの17年ほどである。父の遺産は出版と暮らしで使い果たし、亡くなったとき、家財と蔵書のほかには葬儀の費用しか残っていなかった。

人物のつながり

  • アンデルセン:8歳上。25歳のキェルケゴールは最初の本で、アンデルセンには「人生観がまったく欠けている」と書いた。それでも葬儀にはアンデルセンも参列している。
  • シェリング:1841年11月からベルリン大学で講義を聴いた。2回目の後は「言い表せないほどうれしい」と日記に書いたが、3か月後には兄への手紙で「シェリングはまったく我慢できないほどくだらない話をする」「聴き続けていたら、すっかり馬鹿になっていたかもしれない」とこぼしている。
  • エンゲルス:同じシェリングの講義室には、20歳のエンゲルスやバクーニンもいた。

エピソード

「本が忘れられても、ズボンは永遠に生きる」(32〜33歳・1846年)

1845年12月、キェルケゴールは偽名で新聞に寄稿し、風刺週刊誌『コルサール』にまだ悪口を書かれていないのは自分だけだと嘆いてみせた。同誌はさっそく応じ、翌年1月から戯画で彼を笑いものにする。描かれたのは、左右の長さが違うズボンと、細い脚に大きすぎる長靴だった。架空の対談では、天文学者が「仕立屋にわざわざ頼まない限り、裾は左右同じ長さになりますよ。天才っぽく見せたいなら別ですが」と皮肉っている。キェルケゴールは生前に出さなかった原稿にこう書いた。古い灰色のズボンがほかのすべてを忘れさせてしまう。私の著作がとうに忘れられても、ズボンはとうに擦り切れたまま、永遠に生きるだろう。

わざと「怠け者」に見せる劇場通い(29歳・1842〜43年)

キェルケゴールは毎日町を歩き、出会う人と言葉を交わした。本人はこれを「人間浴」と呼んだ。ところが『あれか、これか』の校正に追われた時期は、その散歩をする暇もない。そこで夜遅くに仕事を終えると劇場へ駆けつけ、5分から10分だけ顔を出して帰った。毎晩数百人に姿を見られれば、「あいつは何もしていない、ただの遊び人だ」という評判を保てるからである。大著で名声を得すぎるのを恐れたのだと、1848年に書いた『わが著作活動の視点』(死後の1859年刊)で明かしている。

墓前で叔父の葬儀に抗議した甥(没後・1855年11月18日)

葬儀は、キェルケゴールが批判し続けた国教会の聖母教会で営まれた。ところがアシステンス墓地で埋葬が終わると、甥で医師のヘンリク・ルン(30歳前後)が進み出て、話をさせてほしいと求めた。司祭トリューゼは止めようとしたが、千人ほどの群衆の叫びにかき消される。ルンは『ヨハネの黙示録』などを読み上げ、叔父が教会の儀式で葬られたことに抗議した。翌年、ルンには100リグスダラーの罰金が科された。ルンはすでに司祭と叔父ペーター(故人の兄)に許しを請うており、1868年には演説を公に撤回している。

出典・参考資料

  • Dansk Biografisk Leksikon「Søren Kierkegaard」(Billeskov Jansen、biografiskleksikon.lex.dk)、Den Store Danske「Søren Kierkegaard」(lex.dk)、Søren Kierkegaard Forskningscenteret「Sickness and Death」(teol.ku.dk/skc)、大阪大学(福沢諭吉の適塾入門、1855年)
  • Søren Kierkegaards Skrifter(SKS)第15巻『Bogen om Adler』序文の草稿(1846〜47年)、注釈 K15「mine Buxer ... har vakt Sensation」(tekster.kb.dk)
  • SKS 第21巻 日誌NB6:58(1848年)、注釈 K21「al det Vrøvl om mine Been og Buxer」(『コルサール』1846年1月9日・16日・23日、3月6日号の戯画と「Den nye Planet」)
  • Kierkegaard『Dagbøger i udvalg 1834–1846』(1992年)VII 1 A 3の注(1845年12月27日の『祖国』紙の記事、1846年1月2日の『コルサール』の応答)
  • SKS 第16巻『Synspunktet for min Forfatter-Virksomhed』(劇場通い)
  • Skat Arildsen「Protesten ved Søren Kierkegaards Begravelse」(Kierkegaardiana、初出は Historiske Meddelelser om Staden København 1941年)
  • SKS 注釈(Notesbog 11 序説):シェリングの講義、日記1841年11月22日、兄宛て書簡1842年2月27日