ボリース・パステルナーク
パステルナーク
Pasternak, Boris Leonidovich
1890年2月10日 – 1960年5月30日 (70歳没)
ボリース・パステルナークの人物情報
ソ連の詩人・作家、翻訳家。1890年、画家レオニードとピアニストのローザの長男としてモスクワに生まれた。少年時代は作曲家を目指したが、19歳で音楽を断ち、1912年にはドイツのマールブルク大学で哲学を学んだ。その後は詩に専念し、詩集『わが妹 人生』(1922年)で名を上げる。1930年代後半から当局ににらまれ、シェイクスピアやゲーテの翻訳で生計を立てた。長編『ドクトル・ジヴァゴ』は国内で出版を拒まれ、1957年にイタリアで刊行される。翌1958年にノーベル文学賞に選ばれたが、激しい非難を浴びて辞退した。1960年、モスクワ郊外ペレジェルキノで死去。
同時代の人物
年齢は新暦(グレゴリオ暦)の1890年2月10日生まれとして数える(旧暦では1月29日)。チェコの作家カレル・チャペックは1か月年上、アガサ・クリスティと米大統領アイゼンハワーも同じ1890年生まれだ。CIAが『ドクトル・ジヴァゴ』のロシア語版をひそかに刷らせたのは、この同い年の大統領の政権下だった。日本では歌人の土屋文明が同い年で、詩人の室生犀星が半年年上にあたる。
パステルナークが亡くなった1960年には、その5か月前にカミュも世を去っている。
年齢で見る生涯
作曲家、哲学者と二度進路を変え、詩人として世に出たのは23歳だった。死の2か月半後には、イヴィンスカヤが印税の「密輸」の罪で再び逮捕され、8年の刑を受けた。娘のイリーナも3年の刑を受けている。
人物のつながり
エピソード
音を外したのは「神」のほうだった(19歳・1909年)
絶対音感がないことに悩んでいたパステルナークは、1909年の春、自作をスクリャービンに聴いてもらった。スクリャービンは大いに褒め、気に入った一節を弾き直したが、それを違う調で弾いてしまう。若者はひそかに賭けをした。「ボーリャ、実は私にもないんだよ」と言ってくれたら、音楽は自分の天職だ。だが返ってきたのは「絶対音感? あれだけ話した後で? ワーグナーは? チャイコフスキーは? 持っている調律師なら何百人もいる」だった。その夜すでに音楽と縁を切りつつあったことに、本人はまだ気づいていなかったと回想している。
待ちに待った招待状を置いてフランクフルトへ(22歳・1912年)
マールブルクでは、学派の長コーエン教授の日曜の昼食会に招かれることが、哲学者として認められた印だった。1912年の夏、求婚を断られて戻った下宿に、その招待状が届いていた。ところが同時に、従妹がフランクフルトに3日だけ寄るという手紙も届く。彼は翌朝の一番列車で発つと決め、哲学書を束ねてベッドの下に押し込んだ。のちに路地で出くわした教授は博士試験まで残れと勧めたが、哲学を捨てるとは言い出せなかったという。
「感謝し、感動し、誇らしく」から辞退まで(68歳・1958年)
1958年10月23日にノーベル文学賞が発表されると、パステルナークは25日にスウェーデン・アカデミーへ「限りなく感謝し、感動し、誇らしく、驚き、戸惑っている」と打電した。だが27日に作家同盟を除名され、29日には「私の属する社会でこの賞が帯びた意味を考えると、辞退しなければならない」と打電する。同じ年のブリュッセル万博では、CIAがオランダで刷らせたロシア語版がソ連の来場者にひそかに355冊配られていた。2014年にCIAが公開した文書でわかったことだ。メダルは1989年12月、息子エヴゲーニーに手渡された。
出典・参考資料