フランチェスコ・アイエツ

フランチェスコ・アイエツ

アイエツ

Hayez, Francesco

1791年2月10日 – 1882年2月12日 (91歳没)

イタリア 絵画

フランチェスコ・アイエツの人物情報

イタリアの画家である。1791年、ヴェネツィアの貧しい家に生まれ、画商だった叔父の家で育った。ヴェネツィアの美術学校で学んだのち、1809年に奨学生としてローマへ行き、彫刻家カノーヴァの庇護を受けた。1820年にブレラで発表した『ピエトロ・ロッシ』で、イタリア・ロマン主義絵画の旗手とみなされた。1823年からミラノに住み、ブレラ美術学校で長く絵画を教えた。中世を題材にした歴史画のほか、マンゾーニやロッシーニら同時代人の肖像画でも知られる。代表作『接吻』(1859年)はブレラ美術館にある。1882年、91歳で没した。

同時代の人物

アイエツが生まれた1791年には、フランス・ロマン主義の画家ジェリコー、作曲家のマイアベーア、物理学者のファラデーも生まれている。練習曲で知られるチェルニーは、アイエツのわずか11日後の生まれだ。同い年の画家でも、ジェリコーは1828年に36歳で世を去った。アイエツはその後も半世紀以上描き続けている。

日本では、2歳下に渡辺崋山がいる。ともに肖像画の名手だが、崋山が蟄居中に自ら命を絶った1841年、アイエツはミラノで『マンゾーニの肖像』を仕上げていた。

年齢で見る生涯

  • 14歳(1805年) ヴェネツィアの美術学校で、裸体素描の一等賞を取る
  • 18歳(1809年) 奨学生としてローマへ。カノーヴァの庇護を受ける
  • 21歳(1812年) ブレラの「ラオコーン」の競作で一等(同点)。この賞のおかげで兵役を免除された
  • 26歳(1817年) 4月、ローマでヴィンチェンツァ・スカッチャと結婚
  • 29歳(1820年) 『ピエトロ・ロッシ』がブレラで評判になる
  • 50歳(1841年) 『マンゾーニの肖像』を描く
  • 68歳(1859年) 9月、『接吻』を発表。数か月前にミラノはオーストリアの支配を離れていた。男女の衣装の色にイタリアとフランスの同盟を読み取る解釈がある
  • 91歳(1882年) 2月12日、ミラノで死去

いちばん有名な『接吻』は68歳の作で、その後も20年以上筆を執った。ミラノでの暮らしは約59年に及び、同い年のジェリコーの生涯より長い。

人物のつながり

  • カノーヴァ:ローマ美術界の重鎮だった彫刻家。本人の回想によれば、アイエツは日曜ごとに素描を見せに通った。カノーヴァが自作の油絵を見せてくれたときは、「大彫刻家」と「ちっぽけな画家」の差に恥じ入ったという。
  • ロッシーニ:1歳下。本人の回想によれば、1812年に二人とも作品の褒美として兵役を免除され、ローマで知り合って友人になった。没後の1870年、アイエツはその肖像を描いてブレラに寄贈した。
  • マンゾーニ:『いいなずけ』の作家。1841年の肖像は妻テレーザの依頼で、マンゾーニはアトリエで15回ポーズをとった。この作家の顔として最も知られる肖像である。
  • カロリーナ・ツッキ:石版画家。1820年代にはモデルであり恋人だった。「アイエツのフォルナリーナ」と呼ばれた。寝間着姿でベッドにもたれる肖像(通称『病める女』)がトリノの近代美術館にある。

エピソード

蛇を落として宗教行列が大混乱(23歳・1814年)

本人の回想によれば、1814年、アイエツは恋愛がらみの恨みを買って夜に襲われ、血まみれになった。事件を表沙汰にしない代わりにローマを離れることになり、カノーヴァが自分の負担でフィレンツェへ行かせると決めた。出発前、アイエツは絵のモデルに買った長さ3mほどの蛇2匹を、アトリエのあるヴェネツィア宮殿から放した。1匹は宗教行列のそばに落ちて大混乱を招き、もう1匹は中庭の噴水に落ちた。カノーヴァはヴェネツィア方言で「とんでもないばか者だ。若いから大目に見るが、もうフィレンツェへ行け」と叱ったという。

婚約者の肖像に切り傷(25〜26歳・1816〜17年)

ローマに戻ったアイエツは、スカッチャ家の娘ヴィンチェンツァと恋仲になった。銀行員の求婚者がいたが、本人いわく、その男から「獲物を奪った」。叔父の遺産が目当てかと母親に問われると、芸術への愛だけが財産だと答えて結婚を許された。カノーヴァも、身を固めれば分別がつくだろうと喜んだという。ところが婚約者の肖像を描いていたある日、何者かがアトリエに入り、絵の顔に絵筆の柄で切り傷を付けていた。ローマを追われた件の仕返しだと悟ったアイエツは、傷ついた絵を大切に残し、描き直した1枚をスカッチャ家に贈った。

「だから、陽気にいこう!」(88〜90歳・1880〜81年)

アイエツは1869年から回想録を口述したが、1875年に疲れて中断した。最後の一節は、哲学者ロズミーニを描いたとき、マンゾーニがモデルに笑い話を聞かせていた、という思い出である。それでも絵筆は置かなかった。1880年初め、89回目の名の日の祝いへの礼状に、咳が出て脚も弱ったと書きつつ「神は私に恵みを与えすぎたほどだ。だから陽気にいこう!」と結んでいる。翌1881年には『ハーレムの窓辺の花瓶』を描き、遺言でブレラに遺した。その年の暮れに描きかけた自画像は、亡くなったときもアトリエに残っていた。

出典・参考資料

  • Treccani『Dizionario Biografico degli Italiani』第61巻(2004年)「HAYEZ, Francesco」、Wikipedia(it)「Francesco Hayez」、Wikipedia「フランチェスコ・アイエツ」、Pinacoteca di Brera「Portrait of Alessandro Manzoni」「The Kiss」
  • Francesco Hayez『Le mie memorie dettate da Francesco Hayez』(Reale Accademia di Belle Arti in Milano、1890年。archive.org「lemiememoriedett00haye」):本文の第1章(ローマ時代、蛇、フィレンツェ行き、結婚、肖像の切り傷)と末尾(ロズミーニとマンゾーニ)、編者の解説(口述の経緯)
  • 同書付録の文書:ベルジョイオーゾ伯宛ての手紙下書き(1880年)、図版XXV(未完の自画像)、作品目録(ロッシーニの肖像、1870年)
  • Pinacoteca di Brera「Vase of Flowers on the Window of a Harem」、Brera in Humanitas「Francesco Hayez」(遺言による遺贈)
  • Lombardia Beni Culturali/SIGECweb(ロズミーニの肖像、1853年)
  • Finestre sull'Arte「Hayez. L'officina del pittore romantico」展評(カロリーナ・ツッキの肖像)