ニキータ・フルシチョフ

フルシチョフ

Khrushchev, Nikita Sergeyevich

1894年4月15日 – 1971年9月11日 (77歳没)

ロシア 政治家

ニキータ・フルシチョフの人物情報

ソ連の政治家。ロシア南部クルスク県の貧しい農家に生まれ、ドンバス地方の工場や炭鉱で金属工として働いた。1930年代にモスクワの党第一書記となり、スターリンのもとで大粛清の執行にも加わった。スターリンの死後の1953年に党第一書記に就き、1956年の「秘密報告」で個人崇拝と粛清を告発して「雪解け」を進めた。一方で同じ年にハンガリーの蜂起を武力で鎮圧し、1962年にはキューバ危機を招いている。1964年に解任され、1971年に77歳で死去。

同時代の人物

フルシチョフは1894年4月15日生まれ。日本では箏曲家の宮城道雄が、わずか8日早く生まれている。半年後の10月には江戸川乱歩が生まれた。

同じ年の6月には、イギリスのエドワード8世が生まれている。自ら王位を降りた元国王と、党から退けられた元指導者は、どちらも晩年を「元」の肩書きで過ごし、エドワード8世はフルシチョフの8か月あまり後に亡くなった。

冷戦期に向き合った指導者で見ると、毛沢東が4か月年上、アイゼンハワーとド・ゴールが4歳上、ケネディは23歳下にあたる。

年齢で見る生涯

  • 18歳(1912年) 炭鉱町ユーゾフカ(現ドネツク)で、シベリアのレナ金鉱で銃殺された労働者の遺族のために募金を集め、職場を解雇される
  • 35歳(1929年) モスクワの工業アカデミーに入学
  • 43歳(1937年) モスクワの党第一書記として、市と州で登録した「元クラーク・犯罪者」のうち8,500人を銃殺対象の「第1類」とする報告をスターリンに送る
  • 59歳(1953年9月) スターリンの死後、党第一書記に就任
  • 61〜62歳(1956年) 2月、党大会の秘密報告でスターリンを批判。11月にはハンガリーの蜂起を戦車で鎮圧し、ロシア側の資料でも2,500人以上のハンガリー人が死亡した
  • 68歳(1962年) 6月、ノヴォチェルカスクで値上げに抗議した労働者に軍が発砲し、20人以上が死亡。10月にキューバ危機
  • 70歳(1964年10月) 党中央委員会総会で解任される
  • 77歳(1971年) 心臓発作で死去

61歳で粛清を告発した指導者は、43歳のときには銃殺の人数を自ら書き込む側にいた。この両面が、彼の評価を難しくしている。

人物のつながり

  • スターリン:工業アカデミー時代に目をかけられ、モスクワとウクライナの党組織を任された。死後の1956年、秘密報告でその粛清を告発した。
  • ケネディ:1961年のウィーン会談で会い、翌年のキューバ危機では書簡を交わして核戦争を回避した。
  • ブレジネフ:1964年10月、休暇中のフルシチョフを呼び戻して開いた総会で、後任の第一書記に選ばれた。
  • エルンスト・ネイズヴェスヌイ:1962年12月のマネージ美術展で、フルシチョフが作品を激しく罵倒した彫刻家。フルシチョフの死後、息子セルゲイの依頼で白と黒の大理石の墓碑を手がけた(1974年設置)。

エピソード

スターリン夫人がくれた「幸運のくじ」(35〜38歳・1929〜32年)

工業アカデミーの同窓に、スターリンの妻ナジェージダ・アリルーエワがいた。回想録によれば、のちにスターリンと会うようになると、相手はなぜかアカデミーでの彼の働きぶりを知っていた。妻が家で話していたのだと、後で気づいたという。1932年11月の革命記念パレードでは、外套の前をはだけた夫を見て、彼女が「マフラーを忘れた。また風邪をひく」とつぶやいた。その直後、彼女は自ら命を絶つ。フルシチョフはこの縁を「幸運のくじ」と呼び、おかげで生き延びたが、同世代の仲間は「人民の敵」として倒れたと語っている。

農場主ガーストの「夜明けの連れ出し」計画(65歳・1959年)

1959年9月の訪米で、フルシチョフはアイオワ州のロズウェル・ガーストの農場を訪れた。トウモロコシの種子で財を成したガーストとは、1955年以来の仲である。回想録によれば、ガーストは「随行の連中は寝かせておいて、朝早く2人だけで来ませんか」と誘ってきた。国賓の身では無理で、フルシチョフは「昔のカフカスの花嫁さらい」のようなまねはできないと断った。当日は数百人の記者が畑に押し寄せ、怒ったガーストは記者の尻を蹴り、トウモロコシの茎を投げつけた。フルシチョフは「ここは彼の土地だ」と友をかばっている。

「逮捕しろ、銃殺しろ」(76歳・1970年)

引退後のフルシチョフは回想をテープに吹き込み、その写しは息子セルゲイらの手で西側に渡った。1970年11月6日に米タイム社が回想録の刊行を発表すると、4日後、彼は党統制委員会に呼び出されて追及を受けた。記録によれば、フルシチョフは「どうぞ逮捕してください、銃殺してください。生きるのに疲れた」と叫び、「今日ド・ゴールの死を知った。彼がうらやましい」と続けた。ド・ゴールは前日に亡くなっていた。結局、回想録は「捏造だ」とする声明に署名させられたが、翌年2月には再び口述を始めている。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Хрущёв, Никита Сергеевич」「Новочеркасский расстрел」「Венгерское восстание 1956 года」、Wikipedia「ニキータ・フルシチョフ」、ウィリアム・トーブマン『フルシチョフ』ロシア語版巻末「Основные даты жизни и деятельности Н. С. Хрущева」(イリーナ・ギスケ編。1912年5月の募金と解雇、1929年9月のアカデミー入学、1970年11月10日の呼び出し、1971年2月の口述再開など)
  • Хрущёв Н. С.『Время. Люди. Власть』第1巻(Промакадемия、Аллилуева、1932年のパレード)、第4巻(アイオワ訪問とガースト)。本文は http://rodon.org/hns/vlv/1.htm 、http://rodon.org/hns/vlv/4.htm で確認
  • Wikipedia(ru)「Аллилуева, Надежда Сергеевна」(「幸運のくじ」の発言。出典は Хрущев Н. С. Воспоминания: Избранные отрывки. Нью-Йорк, 1979. С. 207)
  • Russia Beyond(ru.rbth.com)「Как американский фермер стал закадычным другом Хрущева」(1955年のクリミアでの出会い)、Quad-City Times「Garst talk recalls time of 'bedlam' in Iowa cornfield」ほか(記者約300人、蹴りと投げつけ)
  • 党統制委員会でのやりとり:Емельянов Ю. В.『Хрущев. Смутьян в Кремле』(委員会記録を引用。タイム社の発表日、声明の全文を含む)、АиФ「Тайная месть Хрущёва」、Brown University Library「Khrushchev and Khrushchev」(テープ約200時間、1970年7月のKGBによる押収)
  • 1937年の報告:istmat.org「Записка секретаря МК ВКП(б) Н.С.Хрущева И.В.Сталину. 10 июля 1937 г.」
  • ネイズヴェスヌイの墓碑:Комсомольская правда「Как Эрнст Неизвестный делал памятник Хрущеву」、「На могиле Н.С. Хрущева установлено надгробье работы Э. Неизвестного / 13 июля 1974」(ウリヤノフスク史サイト)