蒋介石
ショウカイセキ
Chiang Kai-shek
1887年10月31日 – 1975年4月5日 (87歳没)
蒋介石の人物情報
中国の軍人、政治家である。浙江省奉化に生まれ、日本の東京振武学校で学んだのち、孫文のもとで頭角を現した。1924年に黄埔軍官学校の校長となり、孫文の死後は北伐を率いて国民政府の実権を握る。1927年の上海での反共クーデター(四・一二事件)では、共産党員や労働者を武力で弾圧し、多くの命を奪った。日中戦争では重慶を拠点に抗戦を続け、戦勝国の指導者となったが、戦後の内戦で共産党に敗れて1949年に台湾へ移った。1947年の二二八事件では台湾に軍を送って鎮圧させ、台湾移転後も戒厳令のもとで「白色恐怖」と呼ばれる政治弾圧を続けた。1950年から亡くなるまで総統の座にあった。
同時代の人物
蒋介石が生まれた1887年10月31日の25日前に、スイスで建築家のル・コルビュジエが生まれている。同じ年には画家のシャガール、日本では作家の山本有三、作曲家の中山晋平と信時潔が生まれた。信時が「海行かば」を作曲した1937年は、日中戦争が始まった年である。
6歳上の魯迅は同じ浙江省の出身で、日本留学の時期も重なっている。魯迅が帰国した1909年夏、蒋はまだ東京の振武学校の学生だった。
第二次世界大戦の指導者と比べると、F・ルーズベルトは5歳あまり上、ヒトラーは1歳半下である。蒋が亡くなった1975年の11月には、5歳下の独裁者フランコも世を去った。
年齢で見る生涯
大陸を離れたのは62歳のときで、87年の生涯の最後の25年あまりを台湾で過ごした。
人物のつながり
エピソード
株の仲買で一儲けを狙い、大損する(32〜34歳・1920〜22年)
革命の資金にも事欠いていた1920年、蒋は陳果夫らと会社をつくり、開業まもない上海証券物品交易所の株の売買に乗り出した。7月5日の日記には、そのことで「一晩じゅう眠れなかった」とある。12月には張静江らと仲買店「恒泰号」を開く。蒋の4株分の出資は張が立て替え、契約書には変名「蒋偉記」の欄に「中正」と署名した。翌年5月、取引所株が124元に上がると「ひそかに大いに安堵」と記している。しかし投機ブームは崩れ(信交風潮)、1922年3月、上海から「取引所は総崩れ、静江も失敗」との電報が届く。蒋は自分の財産も「すっかり傾き尽きた」と書いた。
日記の書き出しは毎日「雪恥」(40歳・1928年〜)
北伐中の1928年5月3日、済南で国民革命軍と日本軍が衝突し、多くの中国の軍人と市民が殺された(済南事件)。蒋はこの日の日記に、身に受けた恥のなかで「五三を第一とする」と書いた。9日には「国恥、軍恥、民恥……何をもって雪ぐか」と記し、翌日には「毎日本を10ページ読み、6時に起きて国恥を記念する」と決める。やがて日記の書き出しは毎日「雪恥」の2字になった。9年後の1937年にも「済南の恥辱から満9年、その恥を身に受けた中正は、どう申し開きするのか」と書いている。この日記は2026年1月から、台湾の国史館のサイトで画像が無料公開されている。
「以徳報怨」の4文字は演説にない(57歳・1945年)
1945年8月15日、蒋は重慶からラジオで抗戦勝利の演説を行った。日本では「以徳報怨(徳をもって怨みに報いる)」演説として知られるが、原文にこの4文字はない。実際に語ったのは、「旧悪を念わず」「人と善をなす」は民族の最も尊い徳であり、報復はせず、敵国の罪のない人々を辱めてはならない、という言葉だった。さらにキリストの教えから「人を己のごとく遇せよ」「敵を愛せよ」も引いている。蒋は1930年に洗礼を受けたメソジストの信徒だった。『論語』に由来する「以徳報怨」は、のちにこの演説を言い表す呼び名として定着したものである。
出典・参考資料