周恩来
シュウオンライ
Zhou Enlai
1898年3月5日 – 1976年1月8日 (77歳没)
周恩来の人物情報
中国の政治家。江蘇省淮安に生まれ、天津の南開学校を出たのち1917年から約1年半日本に留学した。帰国後は五四運動に加わり、フランスに渡って中国共産党の欧州組織を率いた。1924年に帰国して黄埔軍官学校の政治部主任となり、1936年の西安事件では国共の再合作の交渉にあたった。1949年の中華人民共和国成立から亡くなるまで首相(国務院総理)を務め、ジュネーヴ会議やバンドン会議、ニクソン訪中、日中国交正常化などの外交を担った。文化大革命では毛沢東を支えて国政の実務を回し、一部の幹部や文化財を守る一方、劉少奇の失脚や身近な人々の逮捕にも同意している。1976年1月、77歳で死去した。
同時代の人物
周恩来が生まれた1898年3月5日の18日前に、日本では井伏鱒二が生まれている。4月には画家の佐伯祐三が続いた。佐伯が画家を志して上京した1917年は、周が東京へ留学した年でもある。同じ年にはドイツの劇作家ブレヒト、アメリカの作曲家ガーシュインも生まれ、1歳下には中国の作家老舎がいる。
中国の指導者と比べると、毛沢東は4歳上、蒋介石は10歳上である。蒋介石は周の9か月前の1975年4月に、毛沢東は周の8か月後の1976年9月に亡くなった。
年齢で見る生涯
首相の座にあったのは51歳から77歳まで、26年あまりに及ぶ。日本の受験に失敗した青年が、半世紀後に日本との国交を開く側に立ったことになる。
人物のつながり
エピソード
20歳の誕生日は受験会場で(20歳・1918年)
1918年3月4日から6日まで、周は東京高等師範学校の入学試験を受けた。中日の5日は満20歳の誕生日にあたるが、日記に誕生日への言及はない。書かれているのは、朝に友人の張鴻誥を誘って試験に向かい、午前に英語・物理・化学・博物を受け、帰ってからは翌日の口述試験に備えて「沐浴更衣」したことだけである。10日後、先に張の合格を知った周は「大いに喜んだ」が、自分については「落第は必至」と書いた。7月の第一高等学校の試験でも日本語でつまずき、「日本に来てまだ日本語が話せないとは、恥ずかしくないのか」「官立学校に受からなければ、この恥は決して雪げない」と自分を叱っている。
「アメリカのアヒルではないから」(56歳・1954年)
ジュネーヴ会議のさなかの1954年7月18日、周は、赤狩りで米国を離れスイスに住んでいたチャップリンを夫人とともに宿舎の別荘に招いた。越劇映画『梁山伯と祝英台』を観たチャップリンは、この映画を「すばらしい」とほめている。夕食には茅台酒と北京ダックが出た。中国側の記録によれば、チャップリンは「私の演じたシャルロのよちよち歩きはアヒルをまねたもので、それ以来アヒルは食べないことにしている。でもこれは食べる。アメリカのアヒルではないからね」と笑わせたという。1936年に上海を訪れていたチャップリンは、「中国は本当に変わった」とも語ったと伝えられる。
わが子同然の娘の逮捕状に署名する(69歳・1968年)
孫維世は、1927年に国民党に殺された同志・孫炳文の娘で、周と妻の鄧穎超が実の娘のように面倒を見てきた演出家である。正式な養子縁組はなかったが、日本では「周恩来の養女」とも呼ばれる。文化大革命中の1968年3月1日、孫維世は「ソ連修正主義のスパイ」として逮捕された。重要な容疑者の逮捕には首相の署名が必要で、周は江青の側が用意した資料をもとに逮捕を認めたとされる。孫維世は同年10月14日、獄中で47歳で亡くなり、遺体は解剖されないまま火葬された。同じ年の2月には、周は実弟の周同宇を拘束する文書にも自ら「拘捕審査」と書き込んでいる。周同宇は7年あまり拘禁された。
出典・参考資料