毛沢東
モウタクトウ
Mao Zedong
1893年12月26日 – 1976年9月9日 (82歳没)
毛沢東の人物情報
中国の革命家、政治家である。湖南省湘潭県韶山の農家に生まれ、1921年の中国共産党の結成に加わった。農村を根拠地とするゲリラ戦で国民党との内戦に勝ち、1949年に中華人民共和国を建国して、亡くなるまで最高指導者の座にあった。一方で、1958年に始めた「大躍進」政策は数千万人規模の餓死者を出す大飢饉を招いた。1966年に発動した「文化大革命」でも、多くの人が迫害されて命を落とし、社会と文化は10年にわたって深く傷ついた。中国共産党は1981年の「歴史決議」で、文化大革命を毛沢東の誤りと認めている。
同時代の人物
毛沢東が生まれた1893年12月26日の11日前には、「浜辺の歌」の作曲家成田為三が秋田で生まれている。同じ年の春には、スペインの画家ホアン・ミロが生まれた。翌1894年生まれには、のちに毛と激しく対立するソ連のフルシチョフ、推理作家の江戸川乱歩、画家の徐悲鴻がいる。
1歳上の芥川龍之介は、1921年5月に長沙を訪れ、その体験を短編「湖南の扇」に書いた。当時、27歳の毛沢東も長沙で書店「文化書社」を営み、共産主義の小グループを組織していた。二人が会った記録はないが、同じ時期に同じ町にいたことになる。
1976年は、1月に周恩来とアガサ・クリスティが亡くなり、9月に毛沢東が亡くなった年である。前年の1975年には、宿敵の蒋介石と、1歳上の独裁者フランコが亡くなっている。
年齢で見る生涯
建国を宣言したのは55歳のときである。最大の失政とされる大躍進と文化大革命は、どちらも60歳を過ぎてから、毛自身が主導して始めたものだった。廬山会議で彭徳懐が失脚した65歳のころから、党内で毛に正面から異を唱えることは難しくなっていく。
人物のつながり
エピソード
「友と二人、一銭も使わず5県を歩く」(23歳・1917年)
湖南第一師範の学生だった1917年の夏、毛沢東は先輩の蕭瑜(蕭子升)と、ほとんどお金を持たずに旅に出た。長沙、寧郷、安化、益陽、沅江の5県を約1か月半かけて歩いている。泊まる場所と食事は、同窓生や地元の名士の家を訪ね、対聯を書いて贈ったり、農民の厚意に甘えたりして手に入れた。毛はのちにスノーに「5県を歩いて銅貨1枚も使わなかった」と語っている。ところが同じ語りのなかで、旅の相棒の蕭瑜については「国民党の役人になって故宮の文物を盗んで売り、逃げた」と突き放した。蕭瑜が関わったとされたこの「故宮盗宝案」には、国民党の内紛によるでっち上げだったという見方もある。蕭瑜は政治を離れて海外に移り、毛と同じ1976年にウルグアイで亡くなった。晩年には、この旅を『毛沢東と私は乞食だった』という回想録にまとめている。
「中国を27の国に分けよ」と書いた青年(26歳・1920年)
1920年9月3日、26歳の毛沢東は長沙の新聞『大公報』に「湖南建設問題の根本問題――湖南共和国」を寄稿した。軍閥が争い合って統一国家がまとまらないなら、いっそ中国を各省に分け、「二十七の地方は二十七の国に分けるのがよい」と説いている。湖南人が自分たちで治める「湖南共和国」を、そのための第一歩と考えていた。毛はその後もしばらく、湖南自治を唱える文章を同じ紙面に書き続けた。のちに強力な中央集権国家を築いた指導者にも、若いころには「分省自治」を唱えた時期があったのである。この文章は、1990年に刊行された『毛沢東早期文稿』に収められている。
「解放軍がついて来ないなら、別に組織する」(65歳・1959年)
大躍進の2年目の1959年7月、廬山で開かれた党の会議で、国防部長の彭徳懐は毛沢東に私信を送り、行き過ぎた増産運動をいさめた。毛はこの手紙を「意見書」として出席者全員に配らせ、7月23日の演説で激しく反撃した。演説では、失敗ばかりを報じれば国は滅びるとしたうえで、「そうなれば私は農村へ行って政府を倒す。解放軍がついて来ないなら、別に組織する」とまで言い放っている。彭徳懐は「反党集団」として失脚し、会議のあとには全国で「右派」批判の運動が広がった。政策を見直す機会が失われて飢饉はさらに悪化し、1959〜61年の死者は、楊継縄の推計で約3,600万人、ディケーターの推計で少なくとも4,500万人にのぼる。
出典・参考資料