アレクサンドル・オパーリン
オパーリン
Oparin, Aleksandr
1894年3月2日 – 1980年4月21日 (86歳没)
アレクサンドル・オパーリンの人物情報
ソ連の生化学者。ヴォルガ河畔のウグリチに生まれた。1922年、生命は原始の地球で炭素化合物が化学進化を重ねて生まれたとする仮説を発表し、1924年に小冊子『生命の起源』を出した。のちにコアセルベートの液滴を原始細胞のモデルとした。1935年にバッハと科学アカデミー生化学研究所を創り、1946年から終生所長を務めた。砂糖・茶・パンなど食品工業の生化学も開拓した。一方でルイセンコを支持し、遺伝学が弾圧された時代に科学アカデミーの生物学部門を率いた。
同時代の人物
DBの生年月日(1894年3月2日)は新暦で、旧暦(ユリウス暦)では2月18日にあたる。同じ1894年の4月15日(新暦)にはフルシチョフが生まれており、オパーリンはその6週間ほど年上になる。フルシチョフはのちにルイセンコの後ろ盾となる。日本では、同じ年に宮城道雄と江戸川乱歩が生まれている。
オパーリンが1歳だった1895年にはパスツールが亡くなった。パスツールが自然発生説を否定したあと、では最初の生命はどこから来たのか。1924年の小冊子は、まさにこの問いを取り上げている。
年齢で見る生涯
アカデミー書記を務めた54〜61歳の7年間は、遺伝学者が職を追われた時期とそっくり重なる。
人物のつながり
エピソード
71ページの小冊子から(29〜30歳・1924年)
1922年に植物学会で発表した仮説を、オパーリンは2年後に小冊子にまとめた。わずか71ページだったが、原始の地球で有機物ができ、それが集まって生命が生まれたという筋書きは、すでにここに出そろっていた。この説は、のちにアメリカのミラーの実験で支持されたことでよく知られる。イギリスの結晶学者バナールは、1967年の著書『生命の起源』の巻末に、この小冊子の全文を英訳して収めた。
「細胞は細胞から」は形而上学だ(61歳・1955年)
細胞学者アレクサンドロフが『ソ連大百科事典』第2版に書いた「細胞学」の項目を、生物学の項目に責任を持つオパーリンは1955年12月22日付の所見で掲載不可とした。理由は、ウィルヒョウの「すべての細胞は細胞から」と、染色体による遺伝の理論を、形而上学的な誤りとして持ち上げているから、というものだった。細胞は非細胞性の「生きた物質」から生じるとしたレペシンスカヤの説を、まだ守っていたのである。アレクサンドロフは、もう弾圧を恐れる必要もない時期だったと回想録で批判している。この年の10月には、ルイセンコ体制の転換を求める「300人の手紙」が党に出され、オパーリンもアカデミー書記を退いて生化学者エンゲリガルトと交代した。
30分前の空港と、4度の来日(61〜83歳・1955〜77年)
オパーリンは時間に厳しく、講義にも駅にも空港にも、決まって20〜30分前に着いた。コスミンスカヤによれば、外国出張のたびに所員が車2台で見送り、帰国すると本人が荷物を自分で数えてから、自宅で土産話の夕食会になったという。日本には1955・57・67・77年の4回訪れている。1955年の講演旅行は、日本で生命の起源研究への関心を大きく高めた。1977年4月、83歳のオパーリンは京都で開かれた第5回生命の起源国際会議に出席し、国際生命の起源学会(ISSOL)の名誉会長に選ばれた。会場では赤堀四郎らと写真に収まっている。
出典・参考資料