エドワード8世

エドワード8世

エドワード

Edward VIII

1894年6月23日 – 1972年5月28日 (77歳没)

イギリス 王侯

エドワード8世の人物情報

イギリス国王(在位1936年)。ジョージ5世の長男として生まれ、1910年に16歳で王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)となった。第一次世界大戦に従軍し、戦後は帝国各地を巡る親善旅行で人気を集め、1922年には日本も訪れている。1936年1月に即位したが、離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を政府と教会に認められず、同年12月に退位した。在位は326日で、戴冠式は行われていない。退位後はウィンザー公となって翌年ウォリスと結婚し、1937年のドイツ訪問でヒトラーと会うなど、親独的な言動が問題視された。第二次世界大戦中はバハマ総督を務め、戦後はパリで暮らした。

同時代の人物

1894年の同い年には、ソ連のフルシチョフ、アメリカの画家ノーマン・ロックウェル、日本では作家の江戸川乱歩と箏曲家の宮城道雄がいる。フルシチョフとは、ともに頂点の座を離れた「元」の身で晩年を過ごし、9か月足らずの間に相次いで亡くなった。

生まれたのは曾祖母ヴィクトリアの治世で、女王が亡くなった1901年1月には6歳だった。

年齢で見る生涯

  • 16歳(1910年6月) 父ジョージ5世の即位を受け、16歳の誕生日に王太子となる
  • 20歳(1914年) 近衛擲弾兵連隊に入るが、陸相キッチナーは捕虜になる危険を理由に最前線行きを認めなかった
  • 27歳(1921〜22年) インド、日本などを巡る。日本滞在は1922年4月12日からの28日間
  • 41歳(1936年1月) 即位
  • 42歳(1936年12月) 退位。11日夜、ウィンザー城からのラジオ放送で、愛する女性の助けと支えなしには重責を担えないと語った
  • 42歳(1937年6月) フランスのカンデ城でウォリスと結婚
  • 43歳(1937年10月) 英国政府の反対を押してドイツを訪れ、22日にベルクホーフでヒトラーと会う。ナチス式敬礼に応じる姿も見られた
  • 46〜50歳(1940〜45年) バハマ総督
  • 77歳(1971年10月) パリの自邸に昭和天皇夫妻を迎え、半世紀ぶりに再会する。7か月後の1972年5月、同じ家で死去

王太子の時代は25年半、国王の時代は1年足らず、退位後の「ウィンザー公」としての年月は35年あまりに及ぶ。人生の大半は、王位の手前か、その外にあった。

人物のつながり

  • デビッド・ロイド・ジョージ:ウェールズ出身の政治家。1911年、カナーヴォン城での王太子の叙任式を推し進めた。
  • ジャワハルラール・ネルー:1921年、国民会議派は王太子のインド訪問をボイコットし、一斉休業(ハルタール)を呼びかけた。王太子がアラハバードに着く12月12日を前に、32歳のネルーは初めて逮捕され、獄中に入った。
  • ウィンストン・チャーチル:退位危機では国王に時間を与えるよう公に訴え、退位放送の原稿にも手を入れたとされる。しかし1940年には、ポルトガルにとどまる公に軍法会議の可能性まで示して出国を迫った。

エピソード

摂政宮とのゴルフで「わざとフック」(27歳・1922年)

1922年4月、エドワードは前年に訪英した摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)への答礼として、巡洋戦艦レナウンで来日した。19日には裕仁の誘いで東京ゴルフ倶楽部の駒沢コースを回り、そろいのツイードにニッカーボッカー姿の2人の写真が残る。歴史家ラージが引く回想録によれば、裕仁は何度か空振りしてやっと球に当てたので、エドワードは主人役の面目を保とうと「わざとひどいフックを打つことにした」。ただし2日前の浜離宮での鴨猟(長柄の網で鴨を捕る宮中の遊び)では立場が逆で、「私が不器用なのと同じくらい、彼は器用だった」と書いている。

「何かがなされねばならない」(42歳・1936年11月)

退位の3週間ほど前、国王は不況にあえぐ南ウェールズの炭鉱と製鉄の町を回った。ダウレイスの製鉄所はすでに廃墟同然で、国王がくぐった門は、24年前に両親ジョージ5世夫妻を迎えるために建てられたアーチだった。鉄鋼業の繁栄を祝ったあの行幸では、7品のコース料理と演奏会が用意されたという。失業者を前に国王は「この工場がこの人たちをここに呼び寄せた。再び働けるよう何かがなされねばならない」と言ったと伝えられる(言葉は伝える資料によって異なる)。人々は喝采したが、政府の無策を責めたとも取れる発言は、立憲君主の分を越えるものとして閣僚を警戒させた。

リスボンの電報と「マールブルク文書」(46歳・1940年)

1940年6月、ドイツ軍がフランスに侵攻すると、パリに住んでいた公夫妻はスペインを経て7月3日にリスボンへ入った。ドイツ外相リッベントロップは、公をスペインに引き戻して「説得するか、強制して」とどめる工作を命じる。7月11日のドイツ公使の電報は、公が「自分が王位にあれば戦争は避けられた」と考え、「激しい爆撃が続けばイギリスは和平に応じる」と信じている、と本国に伝えた。公は8月1日にバハマへ向けて出航する。戦後、この電報がドイツ外務省文書から見つかると、チャーチルは1953年、アイゼンハワーに公表を遅らせるよう求めた。文書は1957年に公刊され、公は「まったくの捏造」と否定している。

出典・参考資料

  • Wikipedia(en)「Edward VIII」「1937 tour of Germany by the Duke and Duchess of Windsor」「Operation Willi」「Marburg Files」、Wikipedia「エドワード8世 (イギリス王)」
  • Royal Collection Trust「Edward, Prince of Wales and Crown Prince Hirohito at Tokyo Golf Club」(RCIN 2000448、1922年4月19日)
  • Stephen S. Large『Emperor Hirohito and Showa Japan』(Routledge、2013年版。Duke of Windsor『A King's Story』1951年 を引用)、Old Tokyo「Edward Prince of Wales Visit to Japan 1922」(同書の引用を転載)
  • British Library Endangered Archives Programme EAP166(写真説明「Duck netting at Hama Palace … Tokyo. (April 17th, 1922.)」)
  • Geraint H. Jenkins『A Concise History of Wales』(Cambridge University Press、2007年)第8章(「something must be done」)
  • Joan Abse『Letters from Wales』(Seren、2000年)303頁(Wikipedia(en)「1936 in Wales」経由の長い形の発言)
  • Winterbourne House / GKN Archive blog「Mink stoles, feathers and coal dust: 100 years of royal visits to GKN」(2023年4月10日。1912年のアーチ)
  • 英国国立公文書館が2017年7月に公開した内閣府文書についてのAFP報道(Gulf News「Churchill tried to cover up Nazi plan to woo former king」2017年7月20日)
  • Documents on German Foreign Policy 1918–1945, Series D, Vol. X(リスボンのドイツ公使ホイニンゲン=ヒューネの1940年7月11日付電報。上記報道の引用で確認)
  • Nehru Archive「Message on Occasion of First Arrest (8 December 1921)」
  • 河出書房新社『英国皇太子 日本周遊記 昭和天皇とエドワード8世の友情』(水野勝之・君塚直隆・長谷川怜、2026年9月)プレスリリース(28日間の日程、1971年の「再会」)