デビッド・ロイド・ジョージ
ロイド・ジョージ
Lloyd George, David
1863年1月17日 – 1945年3月26日 (82歳没)
デビッド・ロイド・ジョージの人物情報
イギリスの政治家で、首相(在任1916〜22年)。マンチェスターで生まれ、父の死後は北ウェールズの村で靴職人の叔父に育てられた。母語はウェールズ語で、ウェールズ語を第一言語とした唯一の英国首相である。事務弁護士から27歳で下院議員となり、財務大臣として老齢年金を導入し、地主に重い税を課す「人民予算」を通した。1916年に首相となって第一次世界大戦を指導し、パリ講和会議に臨んだ。1921年にはアイルランドとの条約を結んでいる。一方で、政党資金のために爵位や勲章を事実上売っていたことが問題となり、1922年に退陣した。1945年に伯爵に叙されたが、貴族院に登院する前に故郷で没した。
同時代の人物
1863年の同い年には、日本の岡倉天心がいる。生まれはわずか4週間違いである。イタリアの詩人ダヌンツィオ、画家のムンク、作曲家のマスカーニも同じ年に生まれた。マスカーニはロイド・ジョージと同じ1945年に亡くなっている。
ロイド・ジョージが亡くなった1945年3月26日から17日後にフランクリン・ルーズベルトが、35日後にヒトラーが世を去った。
年齢で見る生涯
初当選から亡くなるまで、55年間同じ選挙区から下院に選ばれ続けた。首相を退いたあとの23年間は、一度も政権に戻らなかった。
人物のつながり
エピソード
「愛さえも車輪の下に」と恋人に書く(24歳・1887年)
農場主の娘マーガレット・オーウェンとの交際は難航した。メソジストの長老だった彼女の父が、バプテストの若い弁護士を嫌ったのである。1887年1月末、約束をすっぽかされ続けた彼は、こう書き送っている。「結局のところ、私の至上の目標は出世することだ。そのためなら何でも犠牲にする。ただし誠実さだけは別だと思いたい。それを妨げるなら、愛そのものさえ私の山車の車輪の下に投げ込む覚悟だ」。手紙の結びは「あなたの恋人より」だった。2人は翌年1月に結婚する。式は彼女の父の希望でメソジストの礼拝堂で挙げ、育ての親の叔父が知らされたのは式の2週間前だったという。
建築中の家をサフラジェットに爆破される(50歳・1913年)
1913年2月19日の午前6時過ぎ、サリー州ウォルトン・ヒースのゴルフ場の脇で、財務大臣ロイド・ジョージのために建てていた家が爆破された。仕掛けられた爆弾は2つで、1つは不発だったが、損害は約500ポンドにのぼった。その夜、女性参政権運動の指導者エメリン・パンクハーストはカーディフの集会で、自分たちが財務大臣の家を爆破したと宣言し、4月に懲役3年の判決を受けた。ロイド・ジョージは参政権に賛成を表明しながら、直前に運動の代表団との面会を断っていた。友人リデルの日記によれば、本人は作業員が死んだかもしれない仕掛け方にひどく憤っていたという。
「アイルランド語で共和国は何と言う?」(58歳・1921年)
1921年7月14日、首相官邸でアイルランド独立派の指導者デ・ヴァレラとの最初の会談が開かれた。チャーチルの『世界の危機』によれば、デ・ヴァレラが渡したアイルランド語の文書の題は「Saorstát Éireann」だった。ロイド・ジョージがこの語の直訳を尋ねると、デ・ヴァレラは少し間を置いて「自由国」だと答えた。では「共和国」はアイルランド語で何と言うのか。アイルランド側の2人が英語で相談している間、ロイド・ジョージは秘書官トマス・ジョーンズとウェールズ語で話し始め、英語を話す客人たちを困惑させた。最後に彼は、ケルト人は共和主義者だったことがなく、それを表す固有の言葉もないのでは、と言ったという。
出典・参考資料