マハトマ・ガンディー
ガンディー
Gandhi, Mahatma
1869年10月2日 – 1948年1月30日 (78歳没)
マハトマ・ガンディーの人物情報
インドの政治指導者、思想家。本名はモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー。西インドのポールバンダルに生まれ、ロンドンで法律を学んで弁護士となった。1893年に南アフリカへ渡り、インド系住民への差別と闘うなかで、非暴力による抵抗運動「サティヤーグラハ」を生み出す。1915年に帰国してからは国民会議派を率い、塩の行進などでイギリスの支配に立ち向かった。1947年にインドは独立したが、翌年ヒンドゥー至上主義者の青年に撃たれて亡くなった。「マハトマ」は「偉大な魂」を意味する尊称である。
同時代の人物
ガンディーが生まれた1869年には、画家のアンリ・マチスと作家のアンドレ・ジッドもフランスで生まれている。イギリスでは、のちに首相となるネヴィル・チェンバレンが同じ年の生まれである。翌1870年にはレーニンが生まれた。武力による革命を率いた人物と、非暴力を貫いた人物が、1歳違いということになる。
日本では、小説『不如帰』の徳富蘆花が1年早い1868年に生まれている。2人ともトルストイに強く惹かれた。蘆花は1906年にヤースナヤ・ポリャーナのトルストイを訪ね、ガンディーは1909年から手紙を交わしている。
独立交渉の相手となるチャーチルは5歳下である。
年齢で見る生涯
23歳から44歳までの約21年間を南アフリカで過ごした。インドで独立運動を率いたのは45歳を過ぎてからである。
人物のつながり
エピソード
ヒンドゥーの聖典を英訳で初めて読む(20歳・1889年)
ロンドン留学の2年目の終わり、ガンディーは神智学協会の兄弟に誘われて『バガヴァッド・ギーター』を読むことになった。ところが本人は、この聖典をサンスクリット語でもグジャラート語でも読んだことがなく、恥ずかしい思いで正直に打ち明けたと自伝に書いている。読んだのはエドウィン・アーノルドの英訳『天上の歌』だった。後年、ギーターは毎日読む書物になる。アーノルドは同じ年に来日して日本に滞在し、のちに日本人女性の黒川玉と結婚した人物でもある。
立ち上がったが、質問が出てこない(22歳・1892年頃)
帰国したガンディーがボンベイで最初に受けた仕事は、少額訴訟裁判所の小さな事件だった。報酬は30ルピー。被告側の弁護人として反対尋問に立ったものの、足が震え、頭がくらくらして、法廷全体が回っているように感じたという。質問が一つも思い浮かばないまま腰を下ろし、仲介人に「この事件は私には無理だ。報酬は返す」と告げた。代わりに雇われた弁護士は51ルピーで引き受け、事件をあっさり片づけた。ロンドンでも、送別の夕食会のスピーチで絶句したことがあったという。
ボイコットの「被害者」に歓迎される(61歳・1931年)
1931年、円卓会議のため渡英したガンディーは、9月にイングランド北部ランカシャーの紡績の町ダーウェンを訪れた。インドでの英国製綿布ボイコットの影響で、この地方では失業者が増えていた。ボイコットを呼びかけた張本人が来たのに、駅には大勢の人が集まり、女性工員たちは腕を組んで歓声を上げたと伝えられる。ガンディーは労働者たちに、失業者の数と失業手当の額をインドの貧しさと並べて示した。「そちらの失業者は300万人だが、インドには1年の半分仕事のない人が3億人近くいる」。
出典・参考資料