ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス
ヴァルガス
Vargas, Getúlio Dornelles
1882年4月19日 – 1954年8月24日 (72歳没)
ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスの人物情報
ブラジルの政治家。リオグランデ・ド・スル州サン・ボルジャの政治的に有力な家に生まれ、州知事などを経て、1930年の革命で臨時政府の首班となった。1937年にはクーデターで議会を解散し、「エスタド・ノーヴォ(新国家)」と呼ばれる独裁体制を敷く。最低賃金や労働法を整えて「貧者の父」と呼ばれた一方、検閲と政治警察による弾圧を行い、拷問も記録されている。1936年には妊娠中の共産主義者オルガ・ベナリオをナチス・ドイツへ引き渡しており、彼女は1942年にドイツで殺害された。日本人移民も、移民の制限や日本語教育・邦字紙の禁止の対象となった。1945年に軍に退陣させられたが、1950年の選挙で返り咲き、1953年に国営石油会社ペトロブラスを創設。1954年、軍に辞任を迫られるなか、大統領官邸で自ら命を絶った。
同時代の人物
1882年生まれの同い年には、フランクリン・ルーズベルト、作曲家のストラヴィンスキーがいる。歌人の斎藤茂吉は、ヴァルガスより25日遅い5月14日生まれだ。
日本とのつながりでは、石川達三が1930年3月に移民船で神戸を発ち、ブラジルの日本人農場に滞在した。帰国は同じ年の8月で、その2か月後にヴァルガスが政権を握る。この体験から書いた『蒼氓』が、第1回芥川賞を受けた。
年齢で見る生涯
日系移民への締めつけは独裁期に重なる。1938年の政令で農村の学校で14歳以下に外国語を教えることが禁じられ、日本語学校は閉鎖に追い込まれた。1941年には邦字紙も禁じられ、1943年7月にはサントス市の日本人などに24時間以内の立ち退きが命じられた。2024年、ブラジル政府の恩赦委員会はこうした迫害について日系人に公式に謝罪している。「勝ち組」の臣道連盟が敗戦を認めた人々を襲ったのは、ヴァルガス失脚後の1946年だが、背景には邦字紙の禁止で正確な情報が届かなくなっていたことがあった。
人物のつながり
エピソード
生年を1年ごまかし、100歳の記念の年にばれる(21歳・1904年)
ヴァルガスの本当の生年月日は1882年4月19日である。ところが1902年12月、法学部へ進むための予備試験で、本当とは違う年齢を申告した。1904年3月にポルトアレグレの法学部へ入学するときには、生年を1883年としている。出した軍の証明書には、書き換えた跡がはっきり残っていた。以後、公文書にも伝記にも生年は「1883年」と書かれ続け、誤りがわかったのは生誕100年の記念行事のころである。それでも2005年の研究論文に「1883〜1954」とあるなど、1883年説はその後も残った。
革命の日に書き始めた秘密の日記(48〜60歳・1930〜42年)
1930年10月3日、革命を起こした当日に、ヴァルガスは日記を書き始めた。そこには、失敗の過ちをあがなえるのは自分の命を差し出すことだけだと感じる、と書かれている。終わるきっかけは、1942年5月1日の前日に起きた自動車事故である。脚とあご、手を折り、3か月近く療養した。日記は9月末、「長く中断したのに、なぜ続けるのか」という趣旨の言葉で閉じられたと紹介されている。10冊余りのノートは娘と孫娘が保管し、1995年に出版された。愚痴や、人目を忍ぶ恋の記述まで含まれていた。
鉛筆の走り書きと、タイプ打ちの遺書(72歳・1954年)
1954年8月13日の夜、副官が大統領の執務机で鉛筆書きのメモを見つけた。そこには「わが敵どもの凶暴さに、わが死という遺産を残す」とあった。娘のアルジラは寝ていた父を起こしてメモを見せたが、父は自殺は臆病者のすることだと答えたという。11日後の24日朝、ヴァルガスはパジャマ姿のまま寝室で胸を撃った。枕元には署名入りの手紙の写しがあり、その日のうちにラジオで全国に放送された。この遺書は、ヴァルガスが下書きした要点をもとに、友人の記者マシエル・フィーリョがタイプで仕上げたとされる。結びの一文は「私は生を去り、歴史に入る」である。寝室はいま共和国博物館の展示室で、弾痕の残る縞のパジャマと拳銃が置かれている。
出典・参考資料