クレメント・アトリー

アトリー

Attlee, Clement Richard

1883年1月3日 – 1967年10月8日 (84歳没)

イギリス 政治家

クレメント・アトリーの人物情報

イギリスの政治家で、労働党の首相(1945〜51年)。ロンドンの弁護士の家に生まれ、ヘイリーベリー校とオックスフォード大学で学んだ。東ロンドンの貧しい地区で少年クラブを運営するうちに社会主義者となり、第一次世界大戦ではガリポリなどで戦った。1935年に労働党党首、第二次世界大戦中はチャーチル内閣の副首相を務める。1945年の総選挙で保守党に圧勝して首相となり、国民保健サービス(NHS)の創設や主要産業の国有化で戦後の福祉国家の土台を築いた。インドとパキスタンの独立もこの政権のもとで行われた。

同時代の人物

アトリーが生まれた1883年には、経済学者のケインズ、作家のカフカ、そしてムッソリーニが生まれている。1922年10月にムッソリーニが首相の座に就いた翌月、アトリーは下院議員に初当選した。同い年の2人は、片や独裁、片や議会という正反対の道を同じ年に歩み始めたことになる。日本では、志賀直哉と高村光太郎が同じ1883年の生まれである。

年齢で見る生涯

  • 22歳(1905年) 母校が東ロンドンで支援する少年クラブを訪ねる。2年後には住み込みの運営責任者となり、14年間を東ロンドンで暮らした
  • 32歳(1915年12月) ガリポリのスヴラ湾撤退で殿(しんがり)を指揮し、モード将軍の直前に最後の一団と半島を離れる
  • 33歳(1916年4月) メソポタミアで砲弾を受けて負傷。後年知ったところでは、味方の砲台の弾だった
  • 36歳(1919年) ステップニー区長に。区で最も若い区長だった
  • 62歳(1945年7月) 首相となり、途中からポツダム会談に加わる。就任の11日後、広島に原爆が投下された
  • 64歳(1947年8月) インドとパキスタンが分離独立。前後の宗派間暴力で推計20万〜200万人が殺され、1000万人以上が故郷を追われた。アトリーは自伝で犠牲を「数千人」と書くにとどめている
  • 65歳(1948年7月) NHSが発足
  • 84歳(1967年10月) 死去

首相になったのは62歳で、党首就任から約10年後だった。それまでの経歴の大半は野党、区政、そして戦時内閣の「ナンバー2」である。

人物のつながり

  • ウィンストン・チャーチル:8歳上。アトリーは自伝で、チャーチルが立案したガリポリ作戦を「戦略構想は正しかった」と擁護している。戦時内閣で支え、1945年の選挙で破った。「空のタクシーが止まり、アトリーが降りてきた」という悪口はチャーチルの言葉として広まっているが、本人は否定し、アトリーを「名誉ある勇敢な紳士」と呼んだと秘書コルヴィルが伝えている。
  • ジャワハルラール・ネルー:アトリーは1928〜29年、サイモン委員会の委員としてインドを訪れた。インド人委員のいないこの委員会には抗議が広がり、1928年11月、ラクナウで抗議に加わったネルーは警官の警棒で打たれている。19年後、2人は英国とインドの首相として独立を迎えた。
  • ケマル・アタチュルク:ガリポリでの敵将。アトリーは自伝で、決定的な地点にケマルの師団がいなければ高地を押さえられたかもしれないと振り返っている。

エピソード

「今夜はアトリーを夕食に呼んで一戦やろう」(32〜33歳・1915〜16年)

ガリポリの塹壕で、中隊長アトリーは隊内きっての社会主義者だった。自伝によれば、大隊長らは「今夜は派手に撃ち合おう、アトリーを夕食に呼べ」と言っては、社会主義をめぐる論争を楽しんだ。トルコ兵の銃撃が続く夜の最前線で、元鉄道員と元荷馬車引きの軍曹2人と、労働組合は職種別か産業別かを議論したこともある。メソポタミアへ向かう船でブリッジの相手をした老砲兵大佐は、彼を「感じのいい男だが、とんでもない民主主義の社会主義の演説屋のならず者」と評したという。

妻の運転で選挙戦を回り、宮殿へ(62歳・1945年)

1945年の総選挙で、アトリーは1日7〜8回の集会をこなす全国遊説に出た。運転するのは妻ヴァイオレット、車は夫妻の自家用車である。全会場に時間どおり送り届けるのが妻の役目で、一度も遅れなかったと自伝にある。大行列を従えたチャーチルの遊説との対比が新聞で大きく扱われ、図らずも得点になった。圧勝が決まった7月26日、組閣の命を受けにバッキンガム宮殿へ向かうときも妻の運転で、妻は外で待っていた。国王はのちに、そのときのアトリーがひどく驚いた顔をしていたとよく言ったという。

自分の生涯を5行の戯れ詩に(73〜77歳・1956〜60年頃)

1956年にガーター勲章を受けたあと、アトリーは兄トムに、自分の経歴を詠んだリメリック(5行の戯れ詩)を書き送った。出走できるとさえ思われなかった男が、首相となり、CHとOMの勲章を受け、伯爵にしてガーター騎士で終わった、という内容で、勲章の略称まで韻に組み込んでいる。トムは第一次世界大戦で良心的兵役拒否を貫いて2年以上投獄され、従軍した弟とは道が分かれた。それでも兄弟は生涯親しく、1960年にトムが亡くなるまで手紙を交わし続けた。

出典・参考資料

  • GOV.UK「Past Prime Ministers: Clement Attlee」、Wikipedia(en)「Clement Attlee」「List of awards and honours received by Clement Attlee」「Partition of India」(死者・避難民の推計)、Wikipedia「クレメント・アトリー」
  • C. R. Attlee『As It Happened』(Heinemann、1954年)第3章「East London」(少年クラブ)、第5章「War Service」(ガリポリでの夕食と論争、ブリッジの大佐、スヴラ湾撤退、ハンナでの負傷、ムスタファ・ケマル)、第6章(区長)、第16章「The End of the War-time Government」(妻の運転、宮殿、国王の言葉)、第17章(広島)、第21章「Commonwealth Relations」(分離独立と犠牲の記述)、サイモン委員会の章。archive.org 掲載の全文(in.ernet.dli.2015.150132)で確認
  • The New York Review of Books「The Mouse That Roared」(2018年4月19日号、John Bew『Citizen Clem』の書評。兄トムへのリメリック)
  • Bodleian Archives & Manuscripts, Papers of Clement Attlee(リメリックのタイプ稿〔日付なし〕、兄トム宛て書簡 1915〜60年)
  • The Men Who Said No「Tom Attlee」(トムの兵役拒否と投獄)
  • Quote Investigator「An Empty Taxi Arrived and Clement Attlee Stepped Out of It」(2017年4月30日)
  • International Churchill Society, Finest Hour 162「Wit and Wisdom」(「謙虚」の応酬とクリフォードの証言)
  • Nehru Archive「Statement on the Lathi-charge at Lucknow (1 December 1928)」