ケマル・アタチュルク
ケマル・アタテュルク(別名:ムスタファ・ケマル ケマル・パシャ)
Kemal Atatürk, Mustafa
1881年 – 1938年11月10日 (約57歳没)
ケマル・アタチュルクの人物情報
トルコ共和国を建国した軍人、政治家である。オスマン帝国の軍人として第一次世界大戦のガリポリの戦いで名を上げ、敗戦後は連合国の占領と分割に抵抗する独立戦争(祖国解放戦争)を指導した。1923年に共和国を宣言して初代大統領となり、スルタン制とカリフ制の廃止、ラテン文字の採用、女性参政権、姓の導入などの改革を短期間で進めた。一方で、一党体制のもとで反対派を抑え、クルド人の反乱を武力で鎮圧した面もある。1934年に議会から「アタテュルク(父なるトルコ人)」の姓を贈られた。
同時代の人物
1881年は、20世紀の各分野を代表する人物が並んで生まれた年である。ピカソ、バルトーク、ツヴァイク、ペニシリンのフレミングが同い年で、生涯のライバルとなるエンヴェル・パシャも同じ年の11月に生まれた。
意外な組み合わせは、同い年の魯迅だろう。アタテュルクは1928年にアラビア文字を廃してラテン文字を採用したが、魯迅も晩年には漢字のラテン化(ローマ字化)を支持していた。国は違っても、同じ世代が「文字を変えて国を変える」ことを考えていたのである。
1歳下にはF・ルーズベルト、2歳下にはムッソリーニがいる。日本では、歌人の斎藤茂吉と俳人の種田山頭火が1歳下にあたる。
年齢で見る生涯
同い年のエンヴェルは、1922年に中央アジアで戦死した。40歳だった。同じ1922年、アタテュルクはギリシャ軍を破り、独立戦争の勝利を決定づけている。共和国の初代大統領として過ごしたのは、42歳から亡くなるまでの15年間である。
人物のつながり
日本との接点では、1890年に和歌山県串本沖で遭難したオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号がよく知られる(アタテュルクは当時9歳)。この縁で、新潟県の柏崎トルコ文化村にあったアタテュルクの騎馬像は、文化村の閉鎖と中越沖地震の被災を経て、2010年に串本町樫野へ移された。
エピソード
イェニチェリの仮装で舞踏会の主役に(33歳・1914年)
ソフィア駐在武官だったケマル少佐は、1914年5月、ブルガリアの祝日に開かれた仮装舞踏会に招かれた。選んだ衣装は、かつてのオスマン帝国の常備軍イェニチェリである。友人カーズム(のちのオザルプ)の回想によれば、ケマルはイスタンブルのカーズムに手紙を書き、博物館にある本物の装束を送らせた。持ち出しには陸軍大臣エンヴェルの許可まで取ったという。会場では衣装が注目の的となり、国王フェルディナントからも声をかけられたと伝えられる。衣装を返すときの手紙には、皆に質問攻めにされたので、イェニチェリの歴史とトルコの勝利をたっぷり語ってやったと書いている。
砕けた懐中時計と「黙れ」(34歳・1915年)
1915年8月10日、ガリポリ半島のコンクバユル(英語名チュヌク・ベア)の戦闘中、榴散弾の弾子がケマルの右胸に当たった。側近の回想によれば、気づいた若い将校が「撃たれました」と声を上げかけると、ケマルはその口を手でふさぎ、「黙れ。私が撃たれたと知れたら兵の士気が崩れる」と制した。弾は胸ポケットの懐中時計を粉々にし、胸にあざを残しただけだった。ケマルは戦いの後、この時計の残骸を記念としてリーマン・フォン・ザンデルスに贈り、将軍は家紋入りの自分の時計を返礼に渡した。将軍の死後、時計は行方がわからなくなり、1939年にはメーカーのオメガ社が懸賞金をかけて捜したが、今も見つかっていない。
かみついた愛犬フォクス(48歳前後・1929年頃〜)
大統領官邸のチャンカヤでアタテュルクが最もかわいがったのは、茶色の猟犬フォクスである。ヤロヴァの温泉で旅回りの写真師から、当時としては大金の50リラで買い取ったと伝えられる。寝室で眠り、地方視察にも連れて行かれた。ところが甘やかされたフォクスは、ビリヤード台に飛び乗り、客にかみつくようになる。作家ファリフ・ルフク・アタイの回想によれば、ある晩ついに主人の手までかんだ。フォクスは農場に移されたのちに処分され、剥製にされた。それを見せられたアタテュルクは、「あれは私がかわいがっていた犬だ。こんな姿では見たくない」と顔を背けたという。その剥製は現在、アンカラのアタテュルク廟(アヌトカビル)の博物館に展示されている。
出典・参考資料