ベニート・ムッソリーニ
ムッソリーニ
Mussolini, Benito
1883年7月29日 – 1945年4月28日 (61歳没)
ベニート・ムッソリーニの人物情報
イタリアの政治家で、ファシズムの創始者である。鍛冶屋の父と小学校教師の母の間に生まれ、社会党機関紙『アヴァンティ!』の編集長を務めたが、第一次世界大戦への参戦を唱えて党を除名された。1919年に「戦闘ファッショ」を結成し、1922年のローマ進軍を経て39歳で首相に就任。1924年の社会主義者の議員マッテオッティ殺害事件の後、一党独裁体制を築いた。1935年にエチオピアへ侵攻して毒ガスを使い、1938年には人種法でユダヤ人を公職や学校から追放した。1940年にドイツ側で第二次世界大戦に参戦したが、1943年に失脚。ドイツの傀儡政権の首班となったのち、1945年4月にパルチザンに銃殺された。
同時代の人物
ムッソリーニが生まれた1883年は、3月にマルクスが亡くなった年である。同じ年には、経済学者のケインズとシュンペーターも生まれた。社会主義の活動家から出発した独裁者と、資本主義の行方を考えた2人の経済学者が同い年である。カフカはムッソリーニより26日早い7月3日生まれだ。日本では志賀直哉や高村光太郎が同じ年に生まれた。
第二次世界大戦の指導者たちとの年齢差は次のとおり。
年齢で見る生涯
首相就任はヒトラーより10年あまり早かったが、最期はわずか2日違いだった。1945年4月には、12日にルーズベルト(63歳)、28日にムッソリーニ(61歳)、30日にヒトラー(56歳)が相次いで世を去っている。
人物のつながり
エピソード
ローザンヌの橋のたもとで浮浪罪により逮捕(18歳・1902年)
1902年7月、代用教員の職を終えた18歳のムッソリーニは、仕事を求めてスイスへ渡った。着いて4日後の7月24日朝、ローザンヌの大橋グラン・ポンのあたりで、梱包用の段ボールにくるまって眠っているところを警官に見つかり、浮浪罪で逮捕される。所持品は旅券と教員免状、わずかな小銭だけだった。35年後の1937年、ローザンヌ大学は、かつてここでパレートの講義を聴いたとされるこの男に名誉博士号を贈った。エチオピアでの毒ガス使用がすでに知られていた時期で、大学は2022年、この授与を大学の使命に背く過ちだったと認めている。
自ら「おぞましい駄作」と呼んだ新聞小説(26歳・1910年)
1909年、ムッソリーニは当時オーストリア領だったトレントで社会主義者バッティスティの新聞『イル・ポポロ』を手伝い、当局に追放された。翌1910年1月から5月まで、この新聞に57回連載されたのが、彼の歴史小説『クラウディア・パルティチェッラ、枢機卿の愛人』である。17世紀の領主司教と愛人の恋を題材に聖職者の堕落を描く反教会小説で、よく読まれたという。のちに本人は「おぞましい駄作」と呼び、トレントを追われた後の唯一の収入源だったと振り返っている。1929年に教皇庁と和解した独裁者には、気まずい過去となった。
サーベルで切り結んだ元同志(31歳・1915年)
1915年3月29日、ミラノ郊外ビコッカの空き家の邸宅で、ムッソリーニは社会党の論客クラウディオ・トレヴェスとサーベルで決闘した。参戦論に転じたムッソリーニが、中立派のトレヴェスを結婚相手の財産にまで触れて自紙で罵倒したのが発端である。党は決闘を禁じていたが、トレヴェスは挑戦状を送る。打ち合いは8回・25分に及び、双方が額や腕、耳たぶなどに傷を負ったところで、医師の判断で打ち切られた。2人は和解しないまま別れ、トレヴェスはのちに亡命先のパリで1933年に亡くなった。
出典・参考資料