アドルフ・ヒトラー
ヒトラー
Hitler, Adolf
1889年4月20日 – 1945年4月30日 (56歳没)
アドルフ・ヒトラーの人物情報
ドイツの政治家で、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首である。オーストリアのブラウナウに生まれ、画家を志して挫折したのち、第一次世界大戦にバイエルン軍の志願兵として従軍した。戦後に政界に入り、1933年に首相に就任すると、翌年には大統領職も兼ねて「総統」として独裁体制を築いた。1939年のポーランド侵攻で第二次世界大戦を引き起こし、約600万人のユダヤ人を殺害したホロコーストをはじめ、ロマ(ジプシー)、障害者、占領地の住民などに対する大量殺害を推し進めた。1945年4月、敗戦を目前にベルリンの地下壕で自殺した。
同時代の人物
1889年生まれの同い年には、歴史家のトインビー、インド初代首相のネルー、詩人のコクトーがいる。トインビーはヒトラーのわずか6日前に生まれ、1936年にはベルリンでヒトラー本人と会見している。日本では、民芸運動の柳宗悦、詩人の室生犀星、作家の夢野久作、日本画家の奥村土牛が同じ年の生まれである。
画家志望だったヒトラーと比べると、1歳下のエゴン・シーレの歩みが対照的だ。シーレは1906年、16歳でヒトラーが2度落ちたウィーン美術アカデミーに合格している。
第二次世界大戦の指導者たちとの年齢差は次のとおり。
年齢で見る生涯
画家を目指して挫折してから首相になるまで、わずか25年である。その後の12年間で、ヨーロッパ全土を巻き込む戦争と、数百万人規模の虐殺が引き起こされた。ヒトラーが自殺した1945年4月、アンネ・フランクはすでにベルゲン・ベルゼン強制収容所で15歳で亡くなっていた。
人物のつながり
エピソード
2度落ちた美術アカデミー(18〜19歳・1907〜08年)
1907年秋、18歳のヒトラーはウィーン美術アカデミーを受験した。持参した作品で一次選考は通ったが、実技試験の評価は「試験画、不十分。頭部が少ない」。建物や風景は描けても、人物がほとんど描けなかったのである。ヒトラー自身の『わが闘争』によれば、学長から建築の道を勧められたが、建築科に進むには中退した実科学校の卒業資格が必要だった。翌1908年には、実技試験にすら進めなかった。その後の数年間、ヒトラーはウィーンの男子単身者寮に住み、絵葉書や水彩画を売って暮らすことになる。
ウィーンで絵を買い取ったユダヤ人の額縁商(22〜24歳・1911〜13年頃)
ウィーン時代のヒトラーの絵を定期的に買い取っていた一人が、ユダヤ人の額縁・ガラス商サミュエル・モルゲンシュテルンである。ヒトラーはウィーンの名所などを描いた水彩画を店に持ち込み、モルゲンシュテルンはそれを額に入れて販売した。歴史家ブリギッテ・ハーマンは、店の顧客名簿から、買い手にもユダヤ人が多かったことを突き止めている。1938年のオーストリア併合後、モルゲンシュテルンは店を奪われ、ウッチ(リッツマンシュタット)のゲットーに送られて1943年に衰弱死した。
「連隊本部の者は後方の豚」(25〜29歳・1914〜18年)
第一次大戦中のヒトラーは、連隊本部から前線へ命令を運ぶ伝令兵だった。のちに「塹壕の兵士」を自称したが、歴史家トーマス・ヴェーバーが連隊の記録を調べると、多くの時間を前線の後方で過ごしていたことがわかった。1932年、元戦友はヒトラーに「塹壕の兵士はみな、連隊本部の者も後方の豚だと思っている」と書き送っている。1918年8月に受けた一級鉄十字章も、推薦したのはユダヤ系の連隊副官フーゴ・グートマン中尉だった。グートマンはナチ政権下で1937年にゲシュタポに逮捕され、釈放後の1939年に亡命してアメリカで生涯を終えた。
出典・参考資料