ピエトロ・アレティーノ

ピエトロ・アレティーノ

アレティーノ

Aretino, Pietro

1492年4月20日 – 1556年10月21日 (64歳没)

イタリア 作家

ピエトロ・アレティーノの人物情報

ルネサンス期イタリアの文筆家。トスカーナのアレッツォで靴屋の息子として生まれ、ローマで教皇レオ10世の宮廷に出入りして、風刺詩で名を上げた。1527年からはヴェネツィアに住み、自分が書いた手紙を次々に本にして出版した。称賛と中傷を使い分けて各国の王侯から年金や贈り物を受け取り、アリオストは彼を「君主たちの鞭」と呼んだ。喜劇『娼婦』『馬丁』、対話篇『ラジョナメンティ』などのほか、好色なソネットでも悪名が高い。

同時代の人物

1492年生まれのアレティーノは、生涯の親友となるティツィアーノ・ヴェチェッリオより数歳年下で、同世代の画家にコレッジョがいる。ヘンリー8世は10か月ほど年上、フランソワ1世とスレイマン1世は2歳下である。王たちにも臆せず手紙を書いた男は、王たちと同世代だった。

日本では、アレティーノが13〜14歳だった1506年に雪舟が亡くなっている。アレティーノが世を去った1556年、狩野永徳は13歳、長谷川等伯は17歳前後だった。

年齢で見る生涯

  • 24〜25歳(1517年頃) ローマに出て、銀行家キージ、のちに教皇レオ10世の宮廷に出入りする
  • 32歳(1524年) 好色なソネットが騒ぎになり、8月にいったんローマを離れる
  • 33歳(1525年7月) ローマで刺客に襲われる。10月にローマを去る
  • 34歳(1527年3月) マントヴァを発ってヴェネツィアに移り、以後ここで暮らす
  • 41歳(1533年末) フランソワ1世から金の鎖が贈られる
  • 45歳(1538年1月) 書簡集の第1巻が出る。存命の人物によるイタリア語の書簡集としては初めての刊行とされる
  • 51歳(1543年7月) ペスキエーラの近くでカール5世と馬を並べる
  • 64歳(1556年10月21日) ヴェネツィアで急死。フィレンツェの使節は「卒中の一撃」と報告した。笑いすぎて死んだという話もあるが、伝承にすぎない

ペンひとつで生きるやり方は、ヴェネツィアに落ち着いた30代半ばから本格的になった。手紙を本にして売り出したのは40代半ばで、生前に5巻を出し、6巻目は没後の1557年に出た。

人物のつながり

  • ティツィアーノ:ヴェネツィアに来て間もなく知り合った親友。ティツィアーノはすぐに彼の肖像を描き、アレティーノはそれにソネットを添えてマントヴァ侯に贈った。
  • フランソワ1世:1533年末、600スクードを超える値打ちの金の鎖を贈った。アレティーノはこれをいつも首にかけ、1545年のティツィアーノによる肖像画にも描かれている。死後、鎖は貧しい人々に分け与えられた。
  • ミケランジェロ:1545年11月、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」の裸体表現を不信心でみだらだと非難する公開書簡を送った。自分は好色なソネットの作者でありながらの非難だった。ミケランジェロはアレティーノより7年長く生きた。

エピソード

夜道の短剣(33歳・1525年)

1524年春、教皇庁の重臣ジベルティは、ジュリオ・ロマーノの官能的な素描16点を版画にしたマルカントニオ・ライモンディを投獄した。アレティーノは教皇に頼んで版画家を釈放させると、その16図に合わせて16篇のソネットを書き、また騒ぎを起こした。翌1525年7月28日の夜、ローマでアキッレ・デッラ・ヴォルタという男に短剣で何度も刺され、手と顔に傷を負う。男の恋人に言い寄ったのが原因だと噂されたが、裏で糸を引いたのはジベルティだと見られた。教皇クレメンス7世は重臣をとがめず、アレティーノは傷が癒えたばかりの10月13日にローマを去った。

皇帝が馬を走らせて迎えに来た(51歳・1543年7月)

1536年から皇帝側に付き、年金と贈り物を受けていたアレティーノは、1543年7月、ウルビーノ公グイドバルドの一行に加わって、ガルダ湖畔のペスキエーラの近くにいた。そこへ通りかかった皇帝カール5世が、遠くから彼に気づく。皇帝は馬に拍車をかけて駆け寄り、右手を差し出すと、彼ひとりをそばに置いて、何マイルも馬を並べながら語り合った。この栄誉で筆の攻撃性は少し和らいだが、年金の取り立ては相変わらず熱心だったと、イタリアの人名辞典は書いている。

家賃は「ほめ言葉」で(58〜59歳・1551年)

ヴェネツィアでアレティーノが借りたのは、大運河に面してリアルトの向かいに建つ立派な館で、彼はここに22年住んだ。家主ドメニコ・ボラーニにきちんと贈るほめ言葉には、少なくとも家賃と同じ値打ちがあると考えていたらしい。1551年、さすがのボラーニも堪忍袋の緒が切れ、名誉ではあるが実入りの少ない店子を追い出した。アレティーノは近くのリーヴァ・デル・カルボーネに移る。その家の年60スクードの家賃は、フィレンツェ公に頼み込んで払ってもらった。

出典・参考資料

  • Treccani『Dizionario Biografico degli Italiani』「ARETINO, Pietro」(Giuliano Innamorati執筆、第4巻、1962年。生没日、生地、両親、ローマでの経歴、ソネットの騒ぎ、ヴェネツィア移住、ティツィアーノとの交友、金の鎖、カール5世の年金、アリオストの評、書簡集の刊行年、娘たち、死去と埋葬)、Wikipedia(it)「Pietro Aretino」(笑い死にの伝承)、Wikipedia(en)「Pietro Aretino」、J. A. Symonds『The Life of Michelangelo Buonarroti』(1545年11月のミケランジェロ宛て書簡)、Finestre sull'Arte「Pietro Aretino e il rapporto con le arti nel Rinascimento. Intervista ad Anna Bisceglia e Matteo Ceriana」(金の鎖と1545年の肖像画)、Robin Halwas「De le lettere di M. Pietro Aretino. Libro primo」(書簡集第1巻の刊記と、存命者による俗語書簡集として最初の刊本という評価)、Spink の競売解説(「Flagellum Principum」のメダル)、Wikipedia「ピエトロ・アレティーノ」、人名辞典DB(同時代の人物の生没日)
  • Treccani『Dizionario Biografico degli Italiani』「ARETINO, Pietro」(3本とも)
  • Finestre sull'Arte(上記。ジベルティによる襲撃の指示説)
  • Á. Sáez「Introducción: Aretino y España」(Ca' Foscari、iris.unive.it。1543年7月のペスキエーラでの会見)(スペイン語)