スレイマン1世
スレイマン
Süleyman
1494年11月6日 – 1566年9月6日 (71歳没)
スレイマン1世の人物情報
オスマン帝国の第10代皇帝で、在位は1520年から66年までの46年間。父セリム1世の後を25歳で継ぎ、ベオグラード、ロドス島を攻略し、モハーチの戦いでハンガリーを破った。1529年にはウィーンを包囲し、地中海ではプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を退けている。帝国の最大版図に近い領域を治め、法令を整えたことからトルコでは「カーヌーニー(立法者)」、西欧では「壮麗者」と呼ばれる。「ムヒッビー」の筆名で詩を書く詩人でもあった。
同時代の人物
スレイマンが生まれた1494年は、16世紀ヨーロッパの「三大君主」がそろった年回りである。フランス王フランソワ1世は同じ1494年の9月生まれで、スレイマンより2か月年上だ。イングランド王ヘンリー8世は3歳上だった。この2人はともに1547年に亡くなったが、スレイマンはそれから19年も在位を続けている。
意外な顔ぶれでは、イタリアの彫刻家で金細工師のチェッリーニが6歳下だ。後で紹介するように、スレイマンも若いころに金細工を学んでいる。ヘンリー8世の肖像で知られるホルバイン(子)は3歳下、辛口の文人アレティーノは2歳上だった。
日本では、狩野派の祖狩野正信が、スレイマンの即位から10年後の1530年まで生きていた。スレイマンが48歳だった1543年には狩野永徳が生まれている。スレイマンが亡くなった1566年、永徳はまだ23歳の若手絵師だった。
年齢で見る生涯
即位から死まで、親征はおよそ13回を数える。最後の遠征に出たのは71歳で、陣中で亡くなった。ヘンリー8世やフランソワ1世が50代前半で世を去ったのに比べると、スレイマンは長く生き、その分、皇子たちの後継争いという晩年の悲劇も長く見届けることになった。
人物のつながり
エピソード
皇帝の手に職あり、金細工師スレイマン(10代前半・1500年代)
スレイマンが少年時代を過ごしたのは、父が知事を務めていた黒海沿岸のトラブゾンだった。17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビの『旅行記』によれば、スレイマンはここで乳兄弟のヤフヤー(のちの学者・詩人ベシクタシュル・ヤフヤー・エフェンディ)と一緒に、ギリシア系の職人から金細工を習ったという。エヴリヤは父セリム1世も若いころ金細工を学んだと書いており、トルコの百科事典も「すぐれた詩人であり金細工師でもあった」と紹介している。同じころイタリアでは、6歳下のチェッリーニが金細工師の見習いになっていた。
2799首の恋歌と「一息の健康」(在位中・25〜71歳)
スレイマンは「ムヒッビー(愛する者)」の筆名で詩を書いた。トルコ語の詩集に収められたガゼル(抒情詩)は2799首にのぼり、オスマン古典詩人のなかで作品数は最も多いとされる。ペルシア語の詩集も残した。恋人に「わがイスタンブル、わがカラマン、わがバグダード、わがホラーサーン」と国々の名を連ねて呼びかける詩は、ヒュッレムに宛てたものと伝えられる。一方、病の床で詠んだとされる一句「世に権勢ほど重んじられるものはないが、この世に一息の健康に勝る権勢はない」は、いまもトルコで広く口ずさまれている。
父と子が詩で交わした最後の手紙(64歳・1559年)
晩年のスレイマンを苦しめたのは、息子たちの後継争いだった。1559年、皇子バヤズィトは兄セリムとコンヤで戦って敗れ、父に許しを請う詩の手紙を送った。「世界の王たるスレイマン、わが父よ……罪なき身であることは神がご存じです」。これに対しスレイマンは「わがバヤズィトよ、正しい道に戻るなら罪を許そう。だが罪がないとは言うな、悔い改めよ」と、同じ形式の詩で答えたと伝えられる。和解は実らなかった。バヤズィトはイランへ逃れたが、1562年にカズヴィーンで引き渡され、4人の息子とともに絞殺された。
出典・参考資料