イヴァン4世

イヴァン

Ivan IV

1530年8月25日 – 1584年3月28日 (53歳没)

ロシア 王侯

イヴァン4世の人物情報

モスクワ大公国の君主で、1547年に初めて正式に「ツァーリ(皇帝)」として戴冠した。3歳で大公位を継ぎ、親政を始めると全国会議を開き、1550年に新しい法典を定めた。カザン、アストラハンの両ハン国を征服してヴォルガ川の流域を手に入れたが、1565年からは国土を二分する「オプリーチニナ」を敷き、貴族から聖職者、町の住民まで大勢を処刑した。リヴォニア戦争は失敗に終わり、晩年には後継ぎの長男を死なせている。異名の「グローズヌイ」は「恐るべき」「畏怖させる」という意味である。

同時代の人物

イヴァンと同世代の君主には、3歳上のスペイン王フェリペ2世、3歳下のイングランド女王エリザベス1世、オランダ独立の指導者ウィレム1世がいる。ウィレムはイヴァンの死の4か月後に暗殺された。

意外なところでは、教会音楽の大家パレストリーナが5歳上にあたる。同じころ、モスクワのツァーリも正教会の聖歌を作っていた。日本では、絵師の長谷川等伯が9歳下、狩野永徳が13歳下である。イヴァンが亡くなった1584年(天正12年)、永徳は数え42歳だった。

年齢で見る生涯

日付と年齢はユリウス暦による。

  • 3歳(1533年12月) 父の死で大公位を継ぐ。7歳で母も失い、貴族の権力争いの中で育つ
  • 16歳(1547年1月) ツァーリとして戴冠
  • 22歳(1552年) カザン・ハン国を征服
  • 34歳(1565年) オプリーチニナを始める
  • 39歳(1570年1月) オプリーチニキ(親衛隊)がノヴゴロドの住民を大量に殺害
  • 45歳(1575年10月) シメオン・ベクブラトヴィチに帝位を「譲る」(翌年復位)
  • 51歳(1581年11月) 長男イヴァンが死去。教皇使節ポッセヴィーノは、父に杖で打たれたためと伝える
  • 53歳(1584年3月18日) 死去。英国人ホーシーによれば、入浴後にチェス盤を用意させた直後に倒れた

20代までに戴冠とカザン征服を果たし、恐怖政治は30代半ばから始まった。

人物のつながり

  • エリザベス1世:英露同盟を求めて書簡を交わした。1582年には妃がいるにもかかわらず、女王の縁戚メアリー・ヘイスティングズとの結婚を使節に申し入れさせたが、実らなかった。
  • アンドレイ・クルプスキー:側近だった将軍。1564年にリトアニアへ亡命し、イヴァンと激しい論争の手紙を交わした。
  • リムスキー=コルサコフ:オペラ『プスコフの娘』(1873年初演)でイヴァンをバスの役として描いた。
  • プロコフィエフ:エイゼンシュテインの映画『イワン雷帝』の音楽を書いた。第2部はスターリンの不興を買い、1958年まで公開されなかった。

エピソード

「イヴァネツ」の、へりくだりすぎた嘆願書(45歳・1575年)

1575年、イヴァンは突然、タタールの王族シメオンを「全ルーシの大公」に就け、自分は「モスクワのイヴァン」と名乗ってクレムリンを出た。年代記によれば、質素な馬車で出かけ、シメオンの前では貴族と並んで座ったという。10月30日付でシメオンに出した嘆願書は、「イヴァネツ(イヴァンちゃん)・ヴァシーリエフが、子どものイヴァネツ、フョードレツとともにお願い申し上げます」で始まる。領地も金も卑下して呼ぶ臣下の書式をなぞりながら、求めたのは「家来どもの選び直し」、つまり新たな粛清の許可だった。リハチョフは、残酷な行いを冗談で包むイヴァンの「演技」の典型とみている。

聖歌を作った雷帝(筆名は「愚者パルフェーニー」)(作曲時期は不明)

1580年代から17世紀初めに筆写された聖歌の写本に、「ロシアのツァーリ、イオアンの作」と記された賛歌(スティヒラ)が残っている。府主教ピョートルを讃えるものと、ウラジーミルの聖母のイコンを讃えるものの2組で、研究者パルフェンチエフは歌詞だけでなく旋律もイヴァンの作とみている。大天使ミカエルに捧げた聖歌の作者「愚者パルフェーニー」もイヴァンの筆名と考えられている。パルフェーニーは「純潔の人」の意味で、何度も妃を迎えたツァーリの皮肉らしい。ただしこちらの作者説は仮説にとどまる。

名を書けなかった犠牲者のための祈り(51〜52歳・1582〜83年)

晩年のイヴァンは、自分が処刑させた人々の名簿「シノディク」を作らせ、寄進とともに各地の修道院へ送って供養を命じた。3000人を超える名が並ぶが、名のわからない人も多い。ノヴゴロドの項には「マリュータ(・スクラートフ)の報告によれば、ノヴゴロド人1490人を片づけた」とだけ書かれている。名簿の最後は、「主よ、オプリーチニナで殺された老若男女、その名をあなたご自身がご存じの者たちを覚えたまえ」と結ばれる。悔恨とみるか、死後の裁きへの恐れとみるかは見方が分かれる。記録されたのは犠牲者の一部にすぎず、本当の人数はわかっていない。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Иван Грозный」「Иван Иванович (царевич)」「Псковитянка (опера)」「Иван Грозный (фильм, 1944)」、Wikipedia(en)「Ivan the Terrible」、Wikipedia「イヴァン4世」
  • Д. С. Лихачёв, А. М. Панченко『Смех в Древней Руси』(1984年)の章「Лицедейство Грозного」(シメオン即位の年代記記事、1575年10月30日付の嘆願書の引用、「パルフェーニー」の筆名)
  • 『Послания Ивана Грозного』(Д. С. Лихачёв、Я. С. Лурье 編、1951年)所収の嘆願書、Wikipedia(ru)「Послание Ивана Грозного Симеону Бекбулатовичу」、РБС「Симеон Бекбулатович」(在位1575年10月〜1576年)
  • Н. П. Парфентьев「Музыкально-гимнографическое творчество царя Ивана Грозного」(Вестник ЮУрГУ、2014年、cyberleninka.ru)
  • 『Библиотека литературы Древней Руси』第11巻(ИРЛИ РАН)「Гимнографическое творчество Ивана Грозного」の解説(azbyka.ru 転載)
  • 「Синодик опальных царя Ивана Грозного」(Куопио正教会博物館所蔵のヴァラーム写本の翻刻と解説、vostlit.info)、Р. Г. Скрынников『Иван Грозный』(militera.lib.ru)、БСЭ「Синодик опальных Грозного」
  • Джером Горсей『Записки о России. XVI — начало XVII в.』(А. А. Севастьянова 訳注、МГУ、1990年、vostlit.info)、журнал «Историк»「Смерть за шахматной доской」(死の場面)
  • ピーセムスキーの使節:sergeytsvetkov.livejournal.com「Последний брак Ивана Грозного」ほか(概要の確認のみ)