パオロ・ヴェロネーゼ
ヴェロネーゼ(別名:ベロネーゼ)
Veronese, Paolo
1528年 – 1588年4月19日 (約60歳没)
パオロ・ヴェロネーゼの人物情報
ルネサンス後期のヴェネツィア派を代表する画家。本名はパオロ・カリアーリ。ヴェローナの石工の家に生まれ、叔父でもある画家アントニオ・バディーレに学んだ。1553年頃にヴェネツィアへ移り、総督宮やサン・セバスティアーノ聖堂の装飾で名を上げた。パッラーディオが設計したマゼールのヴィッラ・バルバロのフレスコ画や、ルーヴル美術館の「カナの婚礼」のように、明るい色彩と壮麗な建築を背景に大勢の人物を描き込んだ饗宴図で知られる。1573年には、「最後の晩餐」として描いた大作が異端審問所で問題にされ、題名を「レヴィ家の饗宴」に改めた。
同時代の人物
ヴェロネーゼの2〜3歳上には、教会音楽のパレストリーナ(ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナとも)、フランドルのピーテル・ブリューゲルがいる。野菜や果物で顔を組み立てたアルチンボルドは1歳上である。ブリューゲルは農民の婚礼や祭りを、ヴェロネーゼは貴族の饗宴を描いた。同じ世代の画家が、アルプスの北と南でまったく違う「宴」を描いていたことになる。
1570年代後半、ヴェロネーゼは総督宮の天井画に取り組んでいた。同じころ日本では、狩野永徳が安土城の障壁画を描いている。ヴェロネーゼが亡くなった1588年4月、永徳は45歳、長谷川等伯は48〜49歳だった。
年齢で見る生涯
死亡記録の年齢は60歳である。10歳年上のティントレットは、ヴェロネーゼより6年長く生きた。
人物のつながり
エピソード
審査を辞退した巨匠と金の鎖(28〜29歳・1557年)
マルチャーナ図書館の大広間の天井は、7人の画家が3枚ずつ円形画を描いて飾った。サン・マルコ財務官たちは最も優れた画家に褒美を出すことにし、審査をティツィアーノと彫刻家・建築家のサンソヴィーノに頼んだ。ところが2人は、えこひいきと言われるのを嫌って、画家たち自身に聞くことにした。自分の作品を除いてほかの画家の絵を評価させたところ、全員がパオロを選んだという。財務官は彼に金の鎖を贈った。リドルフィ(1648年)は、この鎖を孫が今も家宝として持っていると書いている。
画家が「置き忘れた」スリッパとほうき(31〜33歳・1560〜61年頃)
ヴィッラ・バルバロの部屋は、ヴェロネーゼが描いただまし絵で埋め尽くされている。扉の陰から小姓や女の子が顔を出して客を迎え、手すりの向こうからは当主マルカントニオ・バルバロの妻が乳母と3人の子どもを連れて見下ろす。窓際の隅には、画家が置き忘れたかのような一足のスリッパと小さなほうきまで描かれている。部屋の続きの奥には、狩人の姿の男が立つ。館の解説は、これをヴェロネーゼの自画像だとしている。
「われわれ画家は、詩人や狂人と同じ自由を使う」(44〜45歳・1573年)
ティツィアーノの「最後の晩餐」が火事で焼けたため、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ修道院の食堂のために、代わりの大作を描いた。7月18日の審問記録によれば、犬の代わりにマグダラのマリアを描けと言われたが、断っていた。槍を持つドイツ風の兵士は何のためかと問われると、「二十語も言わねばなりませんか」とこぼしてから、この有名な弁明をした。つまようじ代わりに「フォーク」で歯をほじる男についても、本人がまじめに説明している。審問所は3か月以内に自費で絵を直すよう命じた。しかしヴェロネーゼは絵をほとんど描き直さず、階段の柱に「レヴィ、大いなる饗宴を催す ルカ伝第5章」と書き入れて、題名を変えた。
出典・参考資料