ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
ヴェチェッリオ
Tiziano Vecellio
1488年 – 1576年8月27日 (約88歳没)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオの人物情報
ルネサンス期ヴェネツィア派を代表する画家。アルプスに近いピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれ、少年時代にヴェネツィアでベッリーニに学んだ。フラーリ聖堂の祭壇画「聖母被昇天」で名声を確立し、神聖ローマ皇帝カール5世、その子のスペイン王フェリペ2世、教皇パウルス3世らの肖像を描いた。「ウルビーノのヴィーナス」などの裸婦像や、筆触と色彩を生かした晩年の作風は、後世の画家に大きな影響を与えた。生年は1488〜90年頃とする説が有力である。
同時代の人物
生年を1488〜90年頃とすると、パルマの画家コレッジョと同世代になる。フランドル出身の作曲家ヴィラールトも同じ頃の生まれで、のちにサン・マルコ大聖堂の楽長として、同じヴェネツィアで活躍した。
日本では、ティツィアーノが10代半ばを過ぎた1506年まで雪舟が生きていた。ティツィアーノが亡くなった1576年8月、狩野永徳は33歳だった。28歳のセルバンテスは、レパントの海戦で左手の自由を失い、アルジェで捕虜になっていた。その海戦の勝利を、ティツィアーノは寓意画にして前年にフェリペ2世へ送っている。
年齢で見る生涯
手紙の「95歳」を信じれば1477年生まれ、死去時は99歳になる。しかし同時代のドルチェは、1508年頃の彼を「20歳になるかならないか」と書いた。代金の支払いを催促する手紙なので、王の同情を引くため年を多めに言ったとみる研究者が多い。
人物のつながり
エピソード
師匠のジョルジョーネが受けた祝いの言葉(推定17〜20歳・1508年頃)
ドイツ人商館の外壁は、大運河側をジョルジョーネが、裏通り側を若いティツィアーノが受け持った。ドルチェの『絵画問答』(1557年)によれば、ティツィアーノの描いた「ユディト」の覆いが外されると、人々はジョルジョーネの作と思い込み、友人たちは「これまでで一番の出来だ」と彼を祝った。ジョルジョーネは不機嫌に「弟子の手だ。もう師を超えている」と答え、何日も家にこもったという。ヴァザーリの『美術家列伝』(1568年)は、以後ジョルジョーネがティツィアーノとの付き合いを断ったと書く。いずれも半世紀ほど後の記録である。
ラグーンに面した庭の夕食会(推定49〜52歳・1540年8月)
ヴェネツィアに来ていた文法学者プリシャネーゼは、1540年8月のある晩、ティツィアーノの家に招かれた。客はアレティーノ、彫刻家・建築家のサンソヴィーノ、ヤーコポ・ナルディ。プリシャネーゼは『神曲』の一句をもじり、「私はこれほどの知者たちの中の4人目となった」と書いている。日が高いうちは家じゅうの絵を眺め、ムラーノ島を望む庭を愛でた。日が沈むと海は着飾った女性を乗せた「千もの小舟」で埋まり、歌や楽器の音が真夜中まで食卓に届いたという。
刺された息子と「世界一の悪党」(推定68〜71歳・1559年)
彫刻家でメダル作家のレオーネ・レオーニは、アレティーノを通じてティツィアーノと親しくなり、ともにカール5世に仕えた仲だった。1559年6月14日、父の用でミラノに来ていた息子オラツィオを、そのレオーニが短剣で襲い、顔を含む7か所に傷を負わせた。動機は金目当てとも、私怨ともいわれる。ティツィアーノは7月12日付でフェリペ2世に手紙を送り、レオーニを「世界一の悪党」と呼んで厳罰を求めた。しかしレオーニは重い罪に問われなかった。
出典・参考資料