アドリアン・ヴィラールト
ヴィラールト
Willaert, Adrian
1490年 – 1562年12月7日 (約72歳没)
アドリアン・ヴィラールトの人物情報
ルネサンス期のフランドル出身の作曲家。1490年頃、フランドル西部のルーセラーレ近郊に生まれたとされる。パリで学んだのちイタリアに渡り、フェラーラのエステ家に仕えた。1527年、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長に就き、亡くなるまで35年その職にあった。宗教曲から世俗曲まで幅広く書き、1559年に曲集『ムジカ・ノーヴァ』を出版した。ツァルリーノやチプリアーノ・デ・ローレらを育て、ヴェネツィア楽派の土台を築いた。
同時代の人物
1490年頃の生まれとすると、同じヴェネツィアで後半生を過ごした画家ティツィアーノとほぼ同世代になる。王侯ではヘンリー8世が1491年、フランソワ1世とスレイマン1世が1494年の生まれである。前の2人が1547年に没したあとも、ヴィラールトは15年楽長を務めた。
1562年12月にヴィラールトが世を去ったとき、ローマのパレストリーナは36歳、ミケランジェロは87歳でまだ存命だった。日本では狩野永徳が19歳だった。
年齢で見る生涯
楽長として過ごした35年は、人生のほぼ半分にあたる。『ムジカ・ノーヴァ』も、20年ほど前の曲を70歳近くになって世に出したものだった。
人物のつながり
エピソード
「ジョスカンの作」だから歌われた名曲(推定23〜31歳・1513〜21年の間)
レオ10世の時代、ローマの教皇礼拝堂では、聖母の祝日のたびに6声のモテット「Verbum bonum et suave」が歌われていた。作者はジョスカンとされ、当時屈指の名曲と評判だった。そこへイタリアに来たばかりのヴィラールトが居合わせ、楽譜にジョスカンの名があるのを見て「それは私の曲だ」と名乗った。すると歌手たちは、二度とその曲を歌わなかったという。弟子のツァルリーノは、この話を師の口から「何度も聞いた」と書いている。評判が人の耳を左右する例として、カスティリオーネ『宮廷人』の話と並べている。
酔っぱらいの二重唱(推定29歳前後・1519年頃)
若いヴィラールトは、ホラティウスの詩句「酒にできないことがあろうか」を題にした奇妙な二重唱を書いた。片方の声部が転調を重ねて五度圏をひと回りし、楽譜どおりなら最後は7度の不協和でぶつかるが、実際には1オクターブに響くよう仕掛けてある。教皇レオ10世のもとに送られたこの曲は、礼拝堂の歌手たちを大いに悩ませた。理論家スパターロは1524年、一弦琴で測り、最後の音は本来の音よりピタゴラス・コンマ分低くなると手紙で批判している。80年後の1600年には、アルトゥージが楽譜とこの手紙を論書に載せている。
遺言で妻に求めたフランドル移住(推定62歳前後・1552年)
ヴィラールトの妻は、名をスザンナということしか伝わっていない。妻の記録は1538年のヴェネツィアの文書が最初で、子どもの記録はない。1552年10月5日の遺言で、ヴィラールトは残りの財産を妻に譲る条件として、自分の死後フランドルへ移り住み、家か土地を買うことを求めた。ところが、その後に何度か書き直した遺言では、この条件が消え、妻にはイタリアにある財産と利子が残されるだけになった。移住をめぐって家で話し合いが重ねられたのだろうと、ベルギーの研究者は推測している。
出典・参考資料