ヘンリー8世
ヘンリー
Henry VIII
1491年6月28日 – 1547年1月28日 (55歳没)
ヘンリー8世の人物情報
テューダー朝のイングランド王。ヘンリー7世の次男で、兄アーサーの死によって王位継承者となり、1509年に17歳で即位した。最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚の無効をローマ教皇に認めてもらえず、1534年の国王至上法でローマ教会と決別して、イングランド国教会の首長となった。生涯に6人の王妃を迎え、うち2人を処刑している。修道院を解散して財産を没収する一方、海軍の増強に力を注いだ。自作の歌が残るほど音楽にも通じていたが、「グリーンスリーブス」の作者とする説は俗説で、曲の様式から王の死後の作と考えられている。
同時代の人物
ヘンリー8世の前後数年は、16世紀前半の世界を動かした君主が続けて生まれた時期である。
芸術家では、ヴェネツィアのティツィアーノが数歳上、ヘンリーの宮廷画家となるハンス・ホルバイン(子)が6歳ほど下にあたる。
日本は戦国時代の入り口だった。ヘンリーが生まれたとき、狩野派の開祖狩野正信は室町幕府の御用絵師として活躍しており、ヘンリーが39歳になる1530年まで存命だった。一方、正信のひ孫にあたる狩野永徳は1543年、ヘンリーが51歳のときに生まれている。英国王がホルバインに肖像を描かせていたころ、日本では狩野派が代を重ねて画壇の中心を築きつつあったことになる。
年齢で見る生涯
跡継ぎの男子を得たのは46歳のときで、死去の時点でエドワードはまだ9歳だった。王位はエドワード(9歳)、メアリー(30歳)、エリザベス(13歳)の順に継がれたが、3人とも子を残さず、テューダー朝はエリザベスの代で終わる。なおフランソワ1世は、ヘンリーの死の2か月後に52歳で亡くなっている。
人物のつながり
エピソード
フランス王に投げ飛ばされる(28歳・1520年)
1520年6月、ヘンリーとフランソワ1世はフランス北部で会見した。両国合わせて1万人以上が集まり、仮設の宮殿や赤ワインの噴水まで用意された、豪華さの競い合いである。フランス側の貴族フルランジュの回想録によれば、ヘンリーはフランソワの襟首をつかみ、「兄弟よ、組み合おう」と勝負を挑んだ。ところが、組み討ちの盛んなブルターニュ育ちのフランソワにあっさり投げ飛ばされてしまう。イングランド側の記録にはこの話が見当たらず、王の面目を思って誰も書かなかったのだろうと推測する歴史家もいる。
王みずから考案した軟膏(40代末〜50代・1540年代)
晩年のヘンリーは、1536年の落馬事故以来の脚の潰瘍に苦しんでいた。1540〜45年ごろに王のために作られた処方集(大英図書館蔵、Sloane MS 1047)には200近い処方が収められ、その中には王自身が考えたと記された薬がある。「ハンプトン・コートにて国王陛下が考案された、ただれを癒す軟膏」は、カモミールやバラの葉に加え、真珠2オンスと「ユニコーンの角」1オンスを使う。ユニコーンの角の正体は、おそらくイッカクの牙だったとみられている。
沈みゆく旗艦と「言うことを聞かない者ども」(54歳・1545年)
1545年7月19日、ポーツマス沖にフランス艦隊が現れた。出撃する旗艦メアリー・ローズ号の艦長ジョージ・カルーに、ヘンリーは金の笛を贈っていた。この船は即位直後の1510年に建造を命じた、治世とほぼ同じだけ働いてきた愛艦である。ところが王がサウスシー城から見守るなか、船は大きく傾いて開いた砲門から浸水し、あっという間に沈んだ。400人以上の乗員のうち、助かったのは30人ほどとされる。カルーの弟の伝記によれば、戦闘中に近くを通った叔父の船に、カルーは「言うことを聞かない者どもがいる」と答えていたという。船体は1982年に引き揚げられ、いまはポーツマスで展示されている。
出典・参考資料