エドワード6世
エドワード
Edward VI
1537年10月12日 – 1553年7月6日 (15歳没)
エドワード6世の人物情報
テューダー朝のイングランド王で、在位は1547年から1553年まで。ヘンリー8世と3番目の王妃ジェーン・シーモアの息子で、母は出産の12日後に亡くなった。9歳で即位し、政治は伯父のサマセット公、ついでノーサンバランド公が動かした。治世には英語の『祈祷書』が定められるなど、プロテスタント化が大きく進んだ。ラテン語やフランス語を自在に使う早熟な少年で、治世の出来事を自筆の日記に書き残している。1553年、15歳で病死した。死の直前、異母姉2人を退けていとこの娘ジェーン・グレイを後継に指名したが、ジェーンの即位は9日で覆された。
同時代の人物
エドワードが即位した1547年1月は、少年や若者の君主が東西で相次いで立った月だった。ロシアでは16歳のイヴァン4世が1月16日にツァーリとして戴冠し、その12日後にエドワードが王位を継いでいる(日付はどちらもユリウス暦)。5歳下のアクバルは1556年に13歳でムガル皇帝となり、エドワードと同じく、即位当初は後見役の重臣が実権を握った。
日本では、長谷川等伯が2歳下の1539年生まれである。エドワードが亡くなった1553年、狩野永徳はまだ10歳だった。
年齢で見る生涯
2人の伯父の処刑はどちらも王の名で行われたが、そのとき王は11歳と14歳だった。在位は6年5か月あまりで、成人して自ら国を治める日は来なかった。
人物のつながり
エピソード
「わが組は一度も取れず」――日記に書いた負け試合(13歳・1551年)
王の日記には、政治の記録の合間に少年らしい勝ち負けも書かれている。1551年4月6日には「弓の腕比べ、的当てでは負け、野の目標を狙う遠矢では勝った」。5月3日は、馬で駆けながら槍で吊るした輪を取る「リング走り」の試合だった。王の組は黒と白、相手は黄色の衣装である。結果は120回の走りで黄組が2回輪を取り、王の組は輪に触れるばかりで一度も取れなかった。王は「まことに不思議なことに見えた」と書き、賞は「わが方の負け」と率直に認めている。
親友への手紙「女性とはなるべく付き合わぬように」(14歳・1551年12月)
アイルランド貴族の息子バーナビー・フィッツパトリックは、王子時代からの学友だった。王子の代わりに鞭で打たれた「身代わり少年」と17世紀の歴史家フラーは伝えるが、伝説的な話とみられている。1551年、王はフランス宮廷へ修業に出る友に自筆の心得書を持たせた。12月20日付の手紙では、ミサに誘われても敬意を払うなと念を押し、「女性とはなるべく付き合わぬように。ただしフランス王に命じられたら、ほどほどに踊ってもよい」と書いた。同じ手紙では伯父サマセット公の裁判を淡々と報告している。バーナビーは、フランス王のお供のとき以外は婦人の集まりに行かないと返事をした。
占星術師と彗星問答(14歳・1552年)
1552年秋、イタリアの医師で占星術師のカルダーノが王に謁見した。カルダーノによれば、王は自分と同じくらい流暢なラテン語で、献呈された本の中身を尋ねた。彗星の原因は惑星の光が集まることだと答えると、王は「星はそれぞれ違う動きをするのに、なぜ光はすぐ散らないのか」「虹なら壁に映るが、何もない空でどう映るのか」と次々に問い返した。彼は約100時間かけて王の運勢を計算し、55歳を過ぎると様々な病に悩まされると占った。王が翌年15歳で死ぬと、計算の一部を省いたせいで危険を見落としたと弁明している。
出典・参考資料