セルゲイ・プロコフィエフ
プロコフィエフ
Prokofiev, Sergei Sergeevich
1891年4月27日 – 1953年3月5日 (61歳没)
セルゲイ・プロコフィエフの人物情報
ロシア(ソ連)の作曲家、ピアニスト。ロシア帝国領だった現ウクライナ東部のソンツォフカに生まれた。9歳でオペラを書き、13歳でペテルブルク音楽院に入学する。革命後の1918年に日本を経てアメリカへ渡り、のちにパリを拠点に活動した。1927年からソ連への演奏旅行を重ね、1936年に家族とともにモスクワへ移り住む。同じ年に「ピーターと狼」を発表した。1948年には共産党の決定で「形式主義」と批判され、同じ月に最初の妻リーナが逮捕されている。1953年3月5日、スターリンと同じ日にモスクワで亡くなった。
同時代の人物
プロコフィエフの誕生日は、教会の出生記録では1891年4月27日(新暦)である(本人は4月23日を誕生日としていた)。ドイツのシュルレアリスム画家マックス・エルンストはわずか25日年上、パリで活躍した画家キスリング(DB名モイーズ・キスリングとも)も同じ1891年生まれだ。小説家ヘンリー・ミラーも同い年である。日本では、娘を描いた「麗子像」で知られる画家岸田劉生が2か月後に生まれた。劉生は38歳で亡くなり、プロコフィエフはその後も24年生きた。
1歳上には、ソ連の詩人・作家パステルナークがいる。プロコフィエフが亡くなった1953年3月5日には、スターリンも世を去った。8週間後にはキスリングもフランスで亡くなっている。
年齢で見る生涯
27歳から45歳までの18年間を国外で過ごした。生涯のほぼ3割にあたる。リーナが釈放され、無罪とされたのは1956年で、プロコフィエフの死から3年後だった。
人物のつながり
エピソード
「太陽についてどう思いますか?」と尋ねる木のアルバム(24歳・1916年〜)
有名人のサイン帳を作ろうと思い立ったプロコフィエフは、ただ名前や格言を書いてもらうのでは面白くないと考えた。全員に同じ質問をすることにして、1916年3月、ようやく問いを思いつく。「太陽についてどう思いますか?」。表紙は飾り気のない板2枚を釘で留め、留め金は触ると手が金属臭くなる鉄にしたいと、日記に注文の細部まで書いている。1921年までに48人が答え、詩人マヤコフスキーは「太陽を片眼鏡にして、大きく見開いた目にはめてやろう」と自作の詩の一節を記した。チェスの世界王者カパブランカとアレヒンも名を連ねている。アルバムは国立文学芸術文書館に保管され、2009年に複製版が出た。
母音を抜いて書いた日記(23歳〜・1914年〜)
プロコフィエフは16歳から日記をつけていた。1914年の夏からは、速く書くために母音を省く癖がついた。「スーツケース(チェモダン)」は「чмд」、「レストラン」は「рстрн」と書く。ソ連へ移る前に日記をつけるのをやめ、日記はアメリカの金庫に預けたままにした。死後の1955年にソ連の文書館に移されると、遺族以外には50年間非公開とされる。息子スヴャトスラフが解読して2002年にパリで出版した。出版社の名は「sprkfv」。母音を抜いた本人の署名そのままである。
帝劇で2回、横浜の手取りは41円(27歳・1918年)
1918年6月1日に東京に着いたプロコフィエフは、南米行きの船を逃し、思いがけず日本に2か月ほど滞在した。7月6日と7日に帝国劇場で演奏会を開くが、2回分の興行権を850円で売り、自分の取り分は500円だった。9日の横浜グランドホテルでの演奏会は、入場料5円が高すぎて聴衆は40〜50人。日記には、手取りは41円だったと書いている。音楽愛好家の徳川頼貞からは曲の注文の話があり、本人は500円を求めたが、まとまらないうちにアメリカのビザが下りた。8月2日に横浜を発ったときの所持金は73ドルだったという。
出典・参考資料