信時潔
ノブトキキヨシ
Nobutoki, Kiyoshi
1887年12月29日 – 1965年8月1日 (77歳没)
信時潔の人物情報
日本の作曲家・チェロ奏者。牧師・吉岡弘毅の三男として大阪に生まれ、11歳になる年に教会の長老・信時義政の養子となった。東京音楽学校でチェロと作曲を学び、ベルリン留学を経て母校の教授となり、本科作曲部の創設に尽力して高田三郎、大中恩らを育てた。「海ゆかば」(1937年)と交声曲「海道東征」(1940年)は戦時下で広く演奏され、戦後は長く遠ざけられた。歌曲集「沙羅」のほか、判明しているだけで1000曲を超える校歌・社歌・団体歌を作曲した。1963年に文化功労者。
同時代の人物
信時が生まれた1887年には、日本で中山晋平も生まれている。2人はともに1905年に上京し、東京音楽学校でユンケルに学んだ。のちに中山は流行歌や童謡、信時は校歌や唱歌で、作曲者の名を知らない人にまで歌われる歌を数多く残した。
海外では、3月にブラジルの作曲家エイトール・ヴィラ・ロボス、7月に画家のマルク・シャガール、10月に建築家のル・コルビュジエが生まれた。
信時が亡くなった1965年8月1日の2日前には谷崎潤一郎が、26日後にはル・コルビュジエが世を去った。同じ年の12月29日、信時の誕生日にあたる日には、1歳半年上の山田耕筰も亡くなっている。
年齢で見る生涯
名を残した2作は、49歳から52歳までの3年間に書かれ、その後は戦争の記憶と切り離せなくなった。オーケストラ伴奏の「海道東征」全曲が戦後初めて放送されたのは1962年1月で、信時は74歳だった。
人物のつながり
エピソード
「あれは放送局に頼まれたのでした」(49歳・1937年)
「海ゆかば」は日本放送協会の委嘱で書かれ、1937年10月の国民精神総動員強調週間に放送された。歌詞は『万葉集』の大伴家持の長歌による。20年後、信時は「あれは放送局に頼まれたのでした。国民精神総動員とかいふわけで」と振り返った。太平洋戦争中は大本営発表が「玉砕」を伝える際に流され、出征の見送りにも遺骨の出迎えにも歌われた。戦後は軍国主義の象徴として遠ざけられた。「本当は戦争と無関係な大正12年の作」という説も広まったが、自筆譜や放送局の記録から、作曲は1937年とみてほぼ間違いない。
汽車の匂いがする、いがぐり頭の先生(40歳前後・昭和初め)
関東大震災の翌年、信時は人家もまばらだった北多摩郡国分寺村に移り住んだ。上野の学校までは、武蔵野の林を抜けて汽車で2時間かかったという。1963年のラジオ番組で、昭和の初めに教わったピアニストの思い出が紹介されている。授業は熱のこもった名講義だった。ただ、洋行帰りの先生はなぜかいがぐり頭で、ときどきその頭をかくのには閉口した。そして近くに寄ると、汽車の匂いがした。信時はそのまま国分寺に40年住み続けた。2017年からは、JR国分寺駅の発車メロディに信時の唱歌「電車ごっこ」が使われている。
「上手でも下手でも、一緒に」(75歳・1963年)
1963年11月3日、文化功労者に選ばれた信時の特別番組がラジオで放送された。最後に本人が語ったのは、自作の話ではなかった。作者名が公表されていない明治以来の唱歌も、伊澤修二や岡野貞一ら先輩が心血を注いだ歌だから大事にしてほしい、と「年寄りの一人として」頼んだのである。続けて、歌は特別な人が歌うのを聴くだけでなく、上手でも下手でも誰も彼もが一緒に歌うことがいちばん大切だ、と呼びかけた。作曲者の名を意識されずに歌われる校歌を1000曲以上書いた人の言葉である。録音は孫の信時裕子が文字に起こしている。
出典・参考資料