エイトール・ヴィラ・ロボス
ヴィラ・ロボス(別名:ビラ・ロボス)
Villa‐Lobos, Heitor
1887年3月5日 – 1959年11月17日 (72歳没)
エイトール・ヴィラ・ロボスの人物情報
ブラジルの作曲家、指揮者、チェロ奏者。リオ・デ・ジャネイロに生まれ、父にチェロを習ったが、音楽学校での体系的な勉強はほとんどしていない。若いころは映画館や劇場の楽団でチェロを弾きながら、街の「ショーロ」の楽師たちと交わり、各地の民謡を集めた。1922年の「近代芸術週間」に参加し、1923年と1927〜30年にパリで名を上げる。帰国後はヴァルガス政権のもとで学校の合唱教育を率い、数万人規模の児童合唱を指揮した。1945年にブラジル音楽アカデミーを創設。生涯に約1000曲を書いた。
同時代の人物
ヴィラ・ロボスの生まれた1887年には、のちに彼の作品を世界に広めるピアニストアルトゥール・ルービンシュタインが36日早く生まれている。日本では、17日後に中山晋平が、12月に信時潔が生まれた。ヴィラ・ロボスは学校で子どもに歌わせる合唱曲を、中山は童謡を、信時は唱歌や校歌を数多く書いた。地球の反対側で、同い年の3人がそれぞれ「子どもの歌」に深く関わったことになる。
同じ年にはシャガール(DB名マルク・シャガールとも)とル・コルビュジエも生まれている。ヴィラ・ロボスが亡くなった1959年の12月には北大路魯山人も世を去った。
年齢で見る生涯
40代半ばから50代の大半を、作曲家であると同時に教育行政の責任者として過ごした。代表作「ブラジル風バッハ」の連作(第5番は1938年)も、この役所勤めの時期に書かれている。
人物のつながり
エピソード
燕尾服に片足だけスリッパ(34歳・1922年)
1922年2月17日、サンパウロ市立劇場で開かれた「近代芸術週間」の最終夜。燕尾服で舞台に現れたヴィラ・ロボスは、片足に靴、もう片足にスリッパを履いていた。客席はこれを「未来派」の挑発と受け取り、激しいブーイングを浴びせた。実際は足を痛めて靴が履けなかっただけで、原因は痛風とも、炎症を起こした魚の目ともいわれる。同じ週には、彼の曲を歌うバリトン歌手に客がヤジを飛ばし、終演後に殴り合いになったとも伝えられる。騒ぎを起こすこと自体が狙いの催しで、彼は心ならずも主役の一人になった。
「ヴィラ・ロボスでいっぱいになって帰ってきた」(36〜37歳・1924年)
友人たちが議会に働きかけて補助金を通し、ヴィラ・ロボスは1923年に初めてパリへ渡った。1924年に帰国すると、友人の詩人マヌエル・バンデイラはこう書いて迎えた。パリ帰りの人は「パリでいっぱい」になって帰ってくるものだが、ヴィラ・ロボスは「ヴィラ・ロボスでいっぱい」になって帰ってきた、と。ただし一つだけ、彼を危ういほど揺さぶったものがあった。ストラヴィンスキーの「春の祭典」である。本人はバンデイラに、生涯で最大の音楽的感動だったと打ち明けたという。
人食いに捕まった作曲家(40歳・1927年)
2度目のパリ滞在中の1927年末、ヴィラ・ロボスは資金繰りに困っていた。演奏会の客を集めようと、作家リュシー・ドラリュ=マルドリュスの長いインタビューに応じる。12月13日の『ラントランシジャン』紙1面に載った題は「ある作曲家の冒険――人食いの音楽」。アマゾンで人食いの部族に捕まって木に縛られ、彼らの音楽を聞かされ、それを作品に生かしたという話である。16世紀のドイツ人ハンス・シュターデンの捕囚記にそっくりで、本人の作り話とみられる。アマゾンへの旅そのものも確かめられていない。それでも宣伝は当たり、演奏会は評判を呼んだ。
出典・参考資料