アンリ4世

アンリ

Henri IV

1553年12月13日 – 1610年5月14日 (56歳没)

フランス 王侯

アンリ4世の人物情報

フランス王(在位1589〜1610年)で、ブルボン朝の初代。ピレネー山麓のポーに生まれ、プロテスタント(ユグノー)として育った。1572年にナバラ王となる。1589年にヴァロワ家が絶えてフランス王位を継いだが、カトリック同盟とスペインに阻まれ、1593年にカトリックに改宗して翌年パリに入った。1598年のナントの王令でプロテスタントに信仰の自由を認め、30年あまり続いた宗教戦争を終わらせた。財政の立て直しやパリの街づくりも進めたが、1610年に狂信的なカトリック教徒ラヴァイヤックに刺殺された。

同時代の人物

1歳上には、イギリスの詩人エドモンド・スペンサーがいる。5歳ほど下には、日本の本阿弥光悦と、のちに清の基礎を築くヌルハチがいる。

アンリが亡くなった1610年5月、ガリレオ・ガリレイは46歳だった。32歳のルーベンスは、のちに王妃マリー・ド・メディシスの生涯を描く24枚の連作(ルーヴル美術館蔵)にアンリも描き込んだ。

年齢で見る生涯

  • 18歳(1572年8月) 18日にマルグリットと結婚。6日後の24日にサン・バルテルミの虐殺が始まる。ルーヴル宮に泊まっていた新教徒の貴族も連れ出されて殺され、犠牲者はパリで約3000人、全国で5000〜1万人とされる。アンリは命を助けられたが、9月26日に改宗を強いられ、宮廷に留め置かれた
  • 22歳(1576年2月) 宮廷を脱出し、新教に戻る
  • 35歳(1589年8月) アンリ3世の暗殺を受けてフランス王となる。だがパリはカトリック同盟が握っていた
  • 39歳(1593年7月) カトリックに改宗。「パリはミサに値する」は本人の言としては確かめられず、1622年の逸話集にシュリーの言葉「王冠はミサに値する」として出るのが早い例である
  • 44歳(1598年4月) ナントの王令を出す
  • 56歳(1610年5月14日) パリのフェロヌリー通りで、渋滞で止まった馬車の中をラヴァイヤックに刺されて死去
  • 没後(1793年) 革命で墓があばかれ、遺体は共同墓穴に投げ込まれた。2010年に「アンリ4世の頭部」とされるミイラの鑑定が発表されたが、2013年にDNA分析で疑問が示され、本物かどうかは決着していない

18歳から22歳までを事実上の捕らわれの身として過ごし、王になってからもパリに入るまで4年半以上かかった。暗殺されたとき、跡継ぎのルイ13世はまだ8歳だった。

人物のつながり

  • カトリーヌ・ド・メディシス:義母。娘マルグリットとアンリの結婚を進めたが、その直後に起きた虐殺を決めた宮廷の中心にいたとされる。
  • エリザベス1世:1589年秋、ディエップに約4000人の兵を送ってアンリを助けた。
  • フェリペ2世:カトリック同盟を後押ししてフランスに介入した宿敵。1598年5月にヴェルヴァンの和約を結び、フェリペはその4か月後に亡くなった。
  • リシュリュー:1606年、アンリが21歳のリシュリューをリュソン司教に指名した。

エピソード

「シャツはみな破れ、上着は肘に穴」(42歳・1596年)

1596年4月15日、スペイン軍と戦っていたアンリは、アミアンから腹心のロニー(のちのシュリー公)に自筆の長い手紙を送った。「敵のすぐそばにいるのに、乗って戦える馬も、着られる甲冑もろくにない。シャツはみな破れ、上着は肘に穴があき、鍋はしょっちゅうひっくり返っている」。食料係は半年以上も代金をもらっていない。財務官たちはごちそうを囲んでいるのに、と憤った王は、財政を見てほしいと頼んだ。ただし手紙は「読んだら焼け」との命令どおり焼かれ、写しはシュリーの回想録にしか残っていない。19世紀の『書簡集』の編者は、末尾は王らしいが、前半はシュリーが記憶で書き直したものとみている。

未完成のポン・ヌフを渡る(49歳・1603年)

1578年に着工したパリのポン・ヌフは、宗教戦争で工事が止まり、アンリ4世のもとで再開された。ピエール・ド・レトワルの日記によれば、1603年6月20日、王はまだ安全とはいえないこの橋を、左岸からルーヴルへ渡った。試しに渡ろうとして首の骨を折ったり、川に落ちたりした者がいると諫められると、「その者たちの中に、わしのような王は一人もいなかった」と答えたという。レトワル自身も「そう言われている」と伝聞として書いている。橋は1607年に完成し、上に家を並べない、パリで初めて歩道をもつ橋となった。橋の中ほどには、いまも王の騎馬像(1818年再建)が立つ。

ガリレオに頼んだ「アンリ星」(56歳・1610年)

1610年3月、ガリレオが木星の4つの衛星を発表し、パトロンのメディチ家にちなんで「メディチ星」と名づけた。翌月の4月20日、パリにいる「王のごく親しい側近」がガリレオに手紙を書いた。次に美しい星を見つけたら「フランスの偉大な星」の名で呼んでほしい。家名のブルボンよりも、王自身の名アンリがよい。そうすればあなたの家は永遠に富み栄える、という。その3週間余り後に王は暗殺される。ガリレオはこの依頼を、6月25日にトスカーナ宮廷の側近ジューニへ宛てた手紙で初めて明かした。王たちが自分の発見をどれほど欲しがったかの証拠としてである。

出典・参考資料

  • Wikipédia「Henri IV (roi de France)」「Massacre de la Saint-Barthélemy」「Paris vaut bien une messe」「Poule au pot」「Tête d'Henri IV」「François Ravaillac」「Pont Neuf」、Wikipedia(en)「Battle of Arques」、Musée du Louvre「À la gloire d'une reine de France. Galerie Médicis」、herodote.net「Richelieu (1585-1642)」、コトバンク「アンリ4世」
  • Berger de Xivrey 編『Recueil des lettres missives de Henri IV』第4巻(1843年)564〜568頁、ロニー宛て1596年4月15日付書簡と編者注(archive.org: recueildeslettre04henr)
  • Pierre de L'Estoile『Mémoires-journaux』第8巻(Brunet ほか編)1603年6月20日の条(archive.org: mmoiresjournaux01brungoog)
  • 『Le opere di Galileo Galilei』国定版第10巻(1900年)書簡339、ガリレオからヴィンチェンツォ・ジューニ宛て、パドヴァ、1610年6月25日(archive.org: agh6462.0010.001.umich.edu)