リシュリュー

リシュリュー(別名:リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシ)

Richelieu

1585年9月9日 – 1642年12月4日 (57歳没)

フランス 政治家

リシュリューの人物情報

フランスの聖職者、政治家。1624年にルイ13世の国務会議に入り、亡くなるまで18年にわたって王の首席大臣を務めた。国内では、1627〜28年のラ・ロシェル包囲戦でユグノー(プロテスタント)の拠点を兵糧攻めで降伏させ、大貴族の反乱を厳しく処断して王権を強めた。国外では、カトリックの枢機卿でありながら新教国と手を結び、三十年戦争でハプスブルク家と争った。1635年にはアカデミー・フランセーズを創設している。日本では大デュマの『三銃士』の敵役としておなじみである。

同時代の人物

リシュリューが生まれた1585年の秋には、ドイツの作曲家ハインリヒ・シュッツも生まれている。2歳上のヴァレンシュタインは、皇帝軍の総司令官として、三十年戦争をリシュリューとは反対の側で戦った。日本では、絵師の岩佐又兵衛が7歳上にあたる。

リシュリューが亡くなった1642年は、1月にガリレオ・ガリレイが世を去り、日本では井原西鶴と関孝和が生まれた年である。

年齢で見る生涯

  • 21歳(1607年4月) ローマで司教に叙階される。前年にリュソン司教に任命されていたが、年齢が足りず教皇の特免が必要だった
  • 36歳(1622年9月) 枢機卿に任じられる
  • 38歳(1624年4月) 国務会議に入り、やがて王の首席大臣として国政を握る
  • 43歳(1628年10月) ラ・ロシェルが降伏。1年余りの包囲で、約2万8000人いた住民のうち生き残ったのは約5400人だった
  • 45歳(1630年11月) 「欺かれた者たちの日」。王母マリー・ド・メディシスらによる失脚工作を退ける
  • 49歳(1635年) アカデミー・フランセーズを創設。同じ年にスペインに宣戦し、三十年戦争に直接加わる
  • 57歳(1642年) 9月、王の寵臣サン=マールの陰謀を暴いて処刑させる。12月4日にパリで死去
  • 没後(1793年) 革命でソルボンヌ礼拝堂の墓があばかれる。顔の部分だけが人手を渡り、1866年に墓へ戻された

権力の座にあった18年は、生涯のほぼ3分の1にあたる。主君ルイ13世もその5か月余り後に41歳で亡くなり、4歳のルイ14世の時代が始まった。

人物のつながり

  • ルイ13世:16歳下の主君。1630年の「欺かれた者たちの日」には母より宰相を選び、以後もリシュリューを支え続けた。
  • ジュール・マザラン:1630年に教皇の使節としてリシュリューと会談し、才を認められた。のちにフランスに帰化し、リシュリュー自身の推挙で、その死の翌日に首席大臣となった。
  • グスタフ・アドルフ:1631年のベールヴァルデ条約で、新教国スウェーデンの参戦を資金で支えた。
  • ピエール・コルネイユ:リシュリューが筋書きを与えて1幕ずつ書かせた「五人作家」の一人。1637年の『ル・シッド』をめぐる論争では、アカデミー・フランセーズがリシュリューの同意のもと、作品の規則違反を指摘する見解を出した。

エピソード

教皇に年齢を偽り、あとで赦しを乞う(21歳・1607年)

21歳でリュソン司教に任命されたリシュリューは、叙階の許しを得るためローマに赴いた。タルマン・デ・レオーの『逸話集』によれば、教皇に「年齢は足りているか」と問われて「はい」と答え、叙階が済んでから、偽りを申したことの赦しを願い出た。教皇は「この若者はたいした食わせ者になるだろう」とイタリア語で言ったという。死後に集められた宮廷の噂話で真偽は確かめられないが、実際には特免を得て1607年4月17日に叙階されている。

処刑の日に贈られたミケランジェロ(47歳・1632年)

1632年10月30日、王弟と組んで反乱を起こしたモンモランシー公アンリ2世が、助命を認められずトゥールーズで斬首された。ルーヴル美術館の記録では、ミケランジェロの『瀕死の奴隷』『反抗する奴隷』は、まさにこの日に公からリシュリューへ贈られている。事情ははっきりしない。リシュリューは像を一族の領地に建てた城館の正面に飾り、隣には碁盤の目の新しい町「リシュリュー」まで造らせたが、本人は城にほとんど住まないまま亡くなる。1663年に訪れたラ・フォンテーヌは、人影のない通りを見て、この町は「まもなく宇宙一美しい村になる栄誉を得るだろう」と妻への手紙で皮肉った。城は19世紀に取り壊され、像はいまルーヴルにある。

こけら落としで、桟敷から身を乗り出す(55歳・1641年)

1641年1月14日、リシュリューは自邸パレ・カルディナルに新築した劇場の大広間を、悲喜劇『ミラム』でこけら落としした。作者デマレは枢機卿の意を受けて書いたといわれ、舞台には昇る月や太陽を見せる仕掛けまで組まれた。ペリソンが伝え聞いたところでは、喝采が起こるたびにリシュリューは我を忘れ、立ち上がっては桟敷から上半身を乗り出したという。一方、稽古では、作家と役者だけを招けと命じられたボワロベールが若い女優を紛れ込ませた。王に「この間の芝居には『獲物』が多かったね」と言われたリシュリューは、腹心を追い払っている。この大広間はのちにモリエールの一座が使い、1673年に彼が最後に立った舞台もここだった。

出典・参考資料

  • Wikipédia「Armand Jean du Plessis de Richelieu」「Siège de La Rochelle (1627-1628)」「Journée des Dupes」「Jules Mazarin」「Henri II de Montmorency」「Richelieu (Indre-et-Loire)」、Wikipedia「リシュリュー」、Académie française「L'histoire」、France Pittoresque「12 septembre 1642 : exécution de Cinq-Mars et de de Thou」、Persée:A. Rebillon「La tête de Richelieu en Bretagne」(Annales de Bretagne、1962年)、France Pittoresque「Richelieu : l'histoire inouïe de sa tête」、OBVIL「Cid (querelle du)」
  • Tallemant des Réaux『Les Historiettes』「Le Cardinal de Richelieu」(Wikisource:Les Historiettes/Tome 1/66)
  • Musée du Louvre, collections「Esclave rebelle」(https://collections.louvre.fr/ark:/53355/cl010091871)、Wikipédia「Henri II de Montmorency」(« le cardinal a reçu du condamné, post mortem… »)
  • La Fontaine『Relation d'un voyage de Paris en Limousin』(妻宛て書簡、1663年9月5日)、francebalade「Richelieu」、ICI「Richelieu : 1631, le rêve du Cardinal pour le plus grand château de France」
  • Louis Dussieux『Le cardinal de Richelieu』第7章(『Gazette』の記事、ペリソン『Histoire de l'Académie française』、アルノー師の回想を引用した箇所)
  • Tallemant des Réaux『Historiettes』(1906年、Mercure de France版)「Bois-Robert」(Wikisource)
  • Wikipedia(en)「Théâtre du Palais-Royal (rue Saint-Honoré)」、BnF Essentiels「Molière en 17 dates」