ピエール・コルネイユ
コルネイユ
Corneille, Pierre
1606年6月6日 – 1684年10月1日 (78歳没)
ピエール・コルネイユの人物情報
フランスの劇作家、詩人。ルーアンの法律家の家に生まれ、弁護士や国王付き弁護官を務めながら、喜劇『メリット』で劇作家としての道を歩み始めた。1637年の悲劇『ル・シッド』は大評判となる一方、劇作の規則をめぐる論争も引き起こした。その後も『オラース』『シンナ』『ポリュークト』などで、情念よりも名誉や意志を選ぶ英雄を描き、ラシーヌと並ぶフランス古典悲劇の代表とされる。1647年にアカデミー・フランセーズ会員となる。晩年は若いラシーヌに人気を譲った。弟トマも劇作家である。
同時代の人物
コルネイユが生まれた1606年の夏、オランダではレンブラントが生まれている。1か月あまり年下で、二人とも17世紀の自国の文化を代表する存在になった。日本では、狩野派の絵師狩野探幽が4歳上にあたる。探幽が亡くなった1674年は、コルネイユが最後の戯曲『シュレナ』を上演した年でもある。
コルネイユが亡くなった1684年、大坂では竹本義太夫が道頓堀に竹本座を開いた。のちに義太夫と組んで人形浄瑠璃を書くのが近松門左衛門である。
年齢で見る生涯
劇作家としての活動は、23歳から68歳までの45年に及ぶ。そのあいだに、劇壇を7年近く離れた時期もあった。
人物のつながり
エピソード
話せば退屈、書けば王様(没後・1688〜91年)
コルネイユは弁護士になったものの、法廷での弁論は苦手だった。没後に出たラ・ブリュイエールの『カラクテール』には、名前を伏せたコルネイユの人物評がある。「素朴で気が小さく、話していると退屈。言葉を言い間違え、作品の出来は入ってくる金で決める。自作をうまく朗読できず、自分の書いた字も読めない」。ところが筆を執れば、「王であり、偉大な王」になるという。同じ本には、「役者は馬車に乗り、歩いているコルネイユに泥をはねかける」という一文もある。のちに「貧乏のうちに死んだ」という伝説も生まれたが、年金を8年間止められた時期はあっても、暮らしに困ってはいなかったとされる。
52歳の求愛と、300年後の返歌(52歳・1658年)
1658年の夏、モリエールの一座がルーアンにやって来た。コルネイユ兄弟は、一座の25歳の女優マルキーズ・デュ・パルクにそろって詩を贈っている。兄ピエールの「マルキーズへのスタンス」は、「私の顔が老けて見えても、あなたも私の年になれば同じこと」と言い返す詩だ。「時は美しいものほど辱める」と脅した上で、自分の詩が後世まで残る限り、あなたの美しさも私が書いた分しか伝わらないと結ぶ。1962年、シャンソン歌手ブラッサンスがこの詩を歌にしたとき、トリスタン・ベルナールが書いた「マルキーズの返事」も付け加えた。「私はまだ26歳よ」と老詩人をやり込める内容である。ただ、実際のマルキーズは年を取ることなく、1668年に35歳で亡くなった。
「モリエールはコルネイユの筆名」説(没後・1919年/2019年)
1919年、作家ピエール・ルイスは、モリエールの『アンフィトリオン』は実はコルネイユが書いたのではないかという記事を発表した。説はのちにモリエールの全作品にまで広げられ、2001年には語彙の統計で支持する研究も出た。決着をつけたのは、2019年11月に『サイエンス・アドバンシズ』に載ったフランスの研究者の論文である。3年かけて、モリエール、コルネイユ兄弟、スカロンらの韻文喜劇の韻、語彙、機能語などを比べた。その結果、モリエールの作品は他の誰とも違い、なかでもピエール・コルネイユとの違いが最も大きいことがわかった。
出典・参考資料