アラム・ハチャトゥリアン
ハチャトゥリアン(別名:ハチャトゥリャーン ハチャトゥリャン)
Khachaturian, Aram Il'ich
1903年6月6日 – 1978年5月1日 (74歳没)
アラム・ハチャトゥリアンの人物情報
ソ連の作曲家・指揮者。1903年、ロシア帝国領のティフリス(現ジョージアのトビリシ)で、アルメニア人の製本職人の家に生まれた。18歳でモスクワに出て、19歳でグネーシン音楽学校に入り、本格的に音楽を学び始める。モスクワ音楽院ではミャスコフスキーに師事した。アルメニアなどカフカスの民俗音楽を生かした色彩豊かな作風で、バレエ「ガイーヌ(ガヤネー)」「スパルタクス」、劇音楽「仮面舞踏会」、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲などを書いた。「ガイーヌ」の「剣の舞」で世界に知られる。1948年には党の決定で「形式主義」と批判された。1978年にモスクワで亡くなり、エレバンに葬られた。
同時代の人物
誕生日は1903年6月6日(新暦。旧暦では5月24日)である。同じ1903年には、日本の作曲家諸井三郎が2か月後に、版画家棟方志功が3か月後に生まれた。キーウ生まれのピアニストホロヴィッツも同い年である。同い年の作家小林多喜二が1933年に29歳で亡くなったとき、ハチャトゥリアンはまだモスクワ音楽院の学生だった。
ソ連の作曲家では、カバレフスキーが1歳下、ショスタコーヴィチが3歳下にあたる。亡くなった1978年には、古賀政男も3か月後に世を去った。
年齢で見る生涯
本格的に音楽を学び始めたのは19歳と遅かった。それから20年で「ガイーヌ」を書き、世界的な作曲家になった。
人物のつながり
エピソード
肖像画のモデルをしながら浮かんだワルツ(37〜38歳・1941年)
レールモントフの戯曲『仮面舞踏会』の劇音楽を頼まれたハチャトゥリアンは、ワルツにいちばん苦しんだ。本人の回想によれば、「ほとんどワルツのうわごとを言うほど」落ち着かなくなったという。そのころ、画家エヴゲーニヤ・パステルナークの肖像画のモデルを務めていた。ある日の制作中に、突然ワルツの第2主題が「聞こえた」と振り返っている。ヴァフタンゴフ劇場の初演は1941年6月21日で、翌日にドイツがソ連に攻め込んだ。7月には空襲で劇場が大きく壊れ、上演は続かなかった。ワルツは組曲として残った。
午後3時から午前2時までで書いた「剣の舞」(39歳・1942年)
「ガイーヌ」の総譜は、疎開先のホテル「ツェントラーリナヤ」の5階で、ピアノと机とベッドがあるだけの寒い部屋で書かれた。書き上げた後、劇場から終幕にもう一曲踊りを足してほしいと頼まれる。ハチャトゥリアンは初め断ったが、結局引き受けた。本人によれば、午後3時に仕事を始め、午前2時にはでき上がった。翌朝11時には稽古で演奏され、夕方には振り付けがつき、翌日は総稽古だったという。もとの題は「クルド人の踊り」で、振付家用の楽譜には「くそっ、バレエのご機嫌取りに!」と書き込んだと伝えられる。
本国で批判された年、アメリカではジュークボックスの人気曲に(44歳・1948年)
1948年2月10日、党政治局は決定を出し、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフらとともにハチャトゥリアンを「形式主義」と批判した。1939年から務めた作曲家同盟組織委員会の副議長の職も解かれた。ちょうど同じころ、アメリカでは「剣の舞」が大流行していた。オスカー・レヴァントのピアノ版やウディ・ハーマン楽団のダンス版などが、ジュークボックスを席巻した。雑誌『ニューズウィーク』は1948年を「ハチャトゥリアンの年」と呼んだ。AP通信の記事には「ロシアでは失脚、アメリカでは喝采」という見出しが付いている。米ソの間には著作権の取り決めがなく、作曲者にはほとんど何も入らなかったとされる。
出典・参考資料