アウラングゼーブ

アウラングゼーブ

Aurangzeb Alamgir

1618年11月3日 – 1707年3月3日 (88歳没)

インド 王侯

アウラングゼーブの人物情報

ムガル帝国の第6代皇帝で、在位は1658年から1707年までのおよそ半世紀。父シャー・ジャハーンが重病に倒れたのをきっかけに帝位争いが起こり、兄弟を次々に破った。長兄ダーラー・シコーを処刑し、父をアーグラ城に幽閉して帝位に就いている。敬虔なスンナ派ムスリムで、イスラーム法に沿った統治を進め、1679年には非ムスリムに課す人頭税(ジズヤ)を復活させた。後半生の26年はデカン(南インド)で遠征を続け、帝国の版図は最大となった。しかしマラーターなどの抵抗は収まらず、財政は疲弊した。ヒンドゥー寺院の破壊を含む宗教政策は、現代のインドでも評価が鋭く分かれている。

同時代の人物

アウラングゼーブが生まれた1618年には、日本で浮世絵の祖とされる菱川師宣も生まれている。師宣が亡くなった1694年、アウラングゼーブはまだデカンの陣営で遠征を続けていた。

1歳下には、フランスの財務総監コルベールがいる。ムガル宮廷に12年滞在したフランス人医師ベルニエは、帰国後に帝位継承戦争の見聞をまとめた本に、コルベールに宛てたインド報告の手紙を収めている。

同じ時代の長期在位の君主には、約20歳下のルイ14世と、35歳下の清の康熙帝がいる。アウラングゼーブが88歳で亡くなったとき、ルイ14世は68歳、康熙帝は52歳で、2人ともまだ在位していた。

年齢で見る生涯

  • 39歳(1658年) サムーガルの戦いで長兄ダーラーを破る。父シャー・ジャハーンをアーグラ城に幽閉し、7月に即位
  • 40歳(1659年) 捕らえたダーラーを、背教者としてデリーで処刑させる
  • 47歳(1666年) 父が幽閉されたまま死去。同じ年、アーグラに出向いたマラーターの指導者シヴァージーが監禁を脱出する
  • 50歳(1669年) ヴァーラーナシーのヴィシュヴァナート寺院が、皇帝の命令で取り壊される
  • 57歳(1675年) シク教の第9代グル、テーグ・バハードゥルがデリーで処刑される
  • 60歳(1679年) ジズヤを復活させる
  • 62歳(1681年) デカンへ向けて出発。以後、北インドには戻らなかった
  • 88歳(1707年) アフマドナガルの陣営で死去

即位したのは39歳である。62歳でデカンに向かってからは、88歳で亡くなるまでの約26年を遠征の陣営で過ごした。

人物のつながり

  • シャー・ジャハーン:父で第5代皇帝。タージ・マハルを建てた。1658年に息子によってアーグラ城に幽閉され、8年後にそこで亡くなった。
  • ダーラー・シコー:長兄で、父が後継に望んでいた皇子。アウラングゼーブは兄をイスラームからの背教者と断じ、1659年に処刑させた。
  • シヴァージー:マラーターの指導者。1666年にアーグラの宮廷に出向いたが監禁され、脱出してデカンで抵抗を続けた。
  • アクバル:曾祖父で第3代皇帝。アクバルが廃止したジズヤを、アウラングゼーブは1679年に復活させた。

エピソード

暴れ象に槍を投げた王子(14歳・1633年)

1633年、アーグラ城下のヤムナー川の岸で、父シャー・ジャハーンの好んだ象の格闘が催された。間近で見ようと前に出た王子に、いきり立った象スダーカルが向きを変えて突進してきた。14歳のアウラングゼーブは馬を退かず、象の頭に槍を投げつけた。牙で馬を倒されると、跳ね起きて剣を抜いたという。兄シュジャーらが駆けつけ、もう1頭の象がスダーカルを追い払って、危機は去った。3日後のイスラーム暦の誕生日に、父は息子の体重と同じ量の金貨を与え、贈り物にはあの象スダーカルまで含まれていた。

「この罪人が生まれた村」(82〜86歳頃・1701〜05年頃)

アウラングゼーブは、祖父ジャハーンギールの行幸の途中、グジャラートの村ダーホードで生まれた。晩年、息子アーザムに宛てた手紙で、この村のことを頼んでいる。「貴き息子よ、グジャラート州のダーホード村は、この罪人が生まれた地である。住民を思いやって扱うのがよい。長年その地の治安役人を務めてきた老人は、なだめて職にとどめよ」。厳格で知られる老皇帝が、生まれた村と一人の老役人にまで気を配っていたのである。手紙に年代は記されていないが、アーザムがグジャラート総督だった1701〜05年頃のものとみられる。

象の喜捨を退け、帽子の代金で死装束を(88歳・1707年)

熱に倒れた皇帝のもとに、占星術師の勧めで「災いよけに、4000ルピーの象を施しに出したい」との願いが上がった。宮廷の年代記によれば、皇帝はこれを許したが、「象の喜捨はヒンドゥー教徒や星を拝む者の習わしだ。代わりに4000ルピーを大カーディー(裁判官)に渡し、貧しい者に配れ」と書き添えた。皇帝は翌朝、息を引き取った。後世の逸話集が伝える遺言では、自分で縫った帽子の代金4ルピー2アンナで死装束をまかない、コーランの筆写で得た305ルピーは貧者に配るよう命じたという。フルダーバードの墓は、ドームも大理石の基壇もない低いものである。

出典・参考資料

  • Wikipedia「アウラングゼーブ」、Wikipedia(en)「Aurangzeb」「Guru Tegh Bahadur」、Jadunath Sarkar『History of Aurangzib』第1巻(1912年)・第5巻、Sarkar『Anecdotes of Aurangzib』巻頭の「Life of Aurangzib」(帝位継承戦争、ダーラーの処刑、シヴァージーのアーグラ脱出、1669年の寺院破壊、1679年4月2日のジズヤ復活、1681年のデカン出発)、Girish Shahane「Aurangzeb was a bigot not just by our standards…」(scroll.in、2017年。Audrey Truschke『Aurangzeb: The Man and the Myth』の寺院保護・破壊をめぐる議論を紹介)、Ashmolean Museum Jameel Centre(アーザムのグジャラート総督在任 1701〜1705年)、ベルニエのコルベール宛書簡はColumbia University Libraries所蔵の Constable訳『Travels in the Mogul Empire A.D. 1656-1668』
  • Sarkar『History of Aurangzib』第1巻 第1章(9〜12頁)。原典は宮廷史家アブドゥル・ハミード・ラーホーリー『パードシャー・ナーマ』、ハーフィー・ハーン(象との対決、3日後の誕生日の体重計りとスダーカルの下賜)
  • 英国王室コレクション(Royal Collection Trust)『パードシャー・ナーマ』挿絵「Prince Awrangzeb facing a maddened elephant named Sudhakar (7 June 1633)」(題名で確認)
  • Sarkar『History of Aurangzib』第1巻 第1章(2頁)。原典は『ルカアート・イ・アーラムギーリー』(石版本 No. 31)(ダーホードの手紙)
  • Sarkar『History of Aurangzib』第5巻 第57章(256〜258頁)。原典はサーキー・ムスタイッド・ハーン『マアースィル・イ・アーラムギーリー』521頁、ハーフィー・ハーン第2巻549頁(象の喜捨、死、埋葬、墓の形)
  • Sarkar訳『Anecdotes of Aurangzib』(『アフカーメ・アーラムギーリー』の英訳)§8「Aurangzib's last will and testament」(遺言)