チャールズ1世
チャールズ
Charles I
1600年11月19日 – 1649年1月30日 (48歳没)
チャールズ1世の人物情報
イングランド、スコットランド、アイルランドの王で、在位は1625年から1649年まで。父ジェームズ1世と同じく王権は神から授かったものと考え、議会と対立した。1629年から11年間は議会を開かずに統治し、やがて国王派と議会派の内戦を招いた。敗れて捕らえられ、1649年に裁判で死刑を宣告されて処刑された。内戦による死者は、歴史家カールトンの推計でイングランドの人口の3%を超え、スコットランドやアイルランドの被害はさらに大きかった。ヨーロッパ屈指の美術収集家でもあった。
同時代の人物
1年前の1599年にはディエゴ・ヴェラスケスとファン・ダイク、同じ1600年にはクロード・ロランが生まれた。王を倒すオリバー・クロムウェルも1599年生まれである。
10か月ほど年下のフランス王ルイ13世は、のちの義兄にあたる。チャールズはルイの妹アンリエット・マリー(英語名ヘンリエッタ・マリア)を妃に迎えた。日本では、狩野派の狩野探幽が2歳下。チャールズがお忍びでマドリードにいた1623年、江戸では徳川家光が3代将軍となっている。
王が処刑されたとき、フランスのルイ14世は10歳、アイザック・ニュートンはまだ6歳だった。
年齢で見る生涯
日付はDBと同じく当時のイングランドのユリウス暦による(グレゴリオ暦では誕生日が1600年11月29日、処刑日が1649年2月9日)。
在位約24年のうち11年は議会なしの統治、最後の7年近くは内戦と幽閉の日々だった。
人物のつながり
エピソード
「ジョン・スミス」、王女の庭の塀を跳び降りる(22歳・1623年)
1623年3月の夕暮れ、マドリードの英国大使の屋敷に2人の旅人が着いた。カバンを抱えて先に入ったのが「トマス・スミス」ことバッキンガム侯、通りの向こうの暗がりで待っていた「ジョン・スミス」が王子チャールズである。随員ジェームズ・ハウエルの書簡集によれば、王子はその後、王女マリアが早朝にカサ・デ・カンポの離宮の果樹園へ出かけると知り、高い仕切り塀によじ登って跳び降りた。王女は悲鳴を上げて逃げ、後見役の老侯爵が膝をついて「お通しすれば私の首が飛びます」と懇願したため、王子は扉から引き返したという。縁談は結局まとまらず、王子は10月、王女を伴わずに帰国した。
デューラーの自画像がたどった道(35〜36歳・1636年〜没後)
1636年、ニュルンベルク市はデューラーの自画像と父の肖像をチャールズに贈った。王はマントヴァのゴンザーガ家の名画をまとめて買い取るほどの収集家だった。処刑後、議会は1649年7月に王の財産を没収して売りに出した。2枚の絵は1651年10月、デイヴィッド・マリーという人物に100ポンドで売られ、スペイン大使カルデナスの手を経て、1654年にスペイン王家に入った。かつて王子が求婚した王女の兄、フェリペ4世の宮廷である。自画像はいまもプラド美術館にある。
「シャツをもう1枚」(48歳・1649年)
処刑の朝、チャールズは夜明けの2時間ほど前に起き、侍従トマス・ハーバートに「今日は私の2度目の婚礼の日だ」と言って身支度を命じた。ハーバートの回想録によれば、王はこう付け加えた。「シャツをいつもより1枚多く着せてくれ。この寒さでは震えるかもしれない。見ている者はそれを恐怖のせいだと思うだろう。そう言われたくない。死は恐ろしくない」。1月30日の午後、王はバンケティング・ハウスの前に組まれた処刑台で首を斬られた。
出典・参考資料