グスタフ・アドルフ
グスタフ・アドルフ(別名:グスタフ2世アドルフ)
Gustav II Adolf
1594年12月19日 – 1632年11月16日 (37歳没)
グスタフ・アドルフの人物情報
スウェーデン王。1611年、デンマークやロシアとの戦争を抱えたまま16歳で即位し、宰相オクセンシェルナとともに国政と軍を立て直した。1630年、新教側の支援とバルト海の覇権を掲げて三十年戦争に参戦し、翌年ブライテンフェルトで皇帝側に大勝した。一方で、その軍はバイエルンの農村を王の黙認のもとで略奪している。1632年、リュッツェンの戦いで37歳で戦死し、5歳の娘クリスティーナが王位を継いだ。スウェーデンはこの王の時代から「大国時代」に入った。
同時代の人物
同じ1594年には、フランスの画家ニコラ・プッサンが生まれている。清のホンタイジは2歳上、のちに国王を倒すオリバー・クロムウェルとスペインの画家ヴェラスケスは4〜5歳下にあたる。
王が戦死した1632年には、オランダでフェルメールが10月に洗礼を受け、王の死の8日後にスピノザが生まれた。日本では、書と工芸の本阿弥光悦が数え75歳、狩野派の狩野探幽が数え31歳で、ともに存命だった。
年齢で見る生涯
日付は当時のスウェーデンのユリウス暦による(DBの生没日はグレゴリオ暦。満年齢は同じ)。
ドイツで戦ったのは、上陸から戦死まで2年4か月あまりにすぎない。戦争はその後も16年続いた。
人物のつながり
エピソード
「ドイツ人が『私を忘れるな』と呼ぶ花」(20歳・1615年)
若い王は、母の侍女だった名門ブラーエ家の娘エッバを王妃にしようとしていた。1613年3月の手紙では「私のために、母上には辛抱してほしい」と頼んでいる。しかし外国の王家との縁組を望む母后クリスティーナは強く反対した。1615年、王は小さな花を添えた手紙を送る。体は離れても心はあなたのもとにあると書き、「ドイツ人がVergiest nicht mein(私を忘れるな)と呼ぶこの花」を、粗末だと見下さないでほしいと願った。恋は実らず、エッバは1618年に軍司令官ヤーコブ・デ・ラ・ガルディと結婚した。
大学を「ウプサラから動けなく」した寄付(29歳・1624年)
1624年8月31日、王は寄付状に署名し、ウプサラ大学に378の農場、製粉所2つ、製材所1つ、8つの教区の十分の一税を与えた。国庫ではなく、祖父グスタフ・ヴァーサ以来の王家の私領からの贈与で、大学はこの収入で200年以上自立できた。19世紀には大学をストックホルムへ移す議論が長く続いたが、大学側は「寄付状は『ウプサラの大学』への贈与だと明記している。移れば財産をヴァーサ家の子孫に返さねばならない」と反論した。財産は今も大学の財団が運用している。
1000リクスダーラーの軍馬シュトライフ(36〜37歳・1631〜32年)
1631年9月、王はドイツ人士官シュトライフ・フォン・ラウエンシュタインから軍馬を1000リクスダーラーで買い、馬は元の持ち主の名で呼ばれた。当時の軍馬はふつう70〜80リクスダーラーだったとされる。リュッツェンの戦いで、王の肘を砕いた銃弾はそのまま馬の首に入り、王は馬を御せなくなって落馬した。発見された王の遺体は略奪され、身に着けていたのは3枚の肌着と刺繍入りの靴下だけだった。シュトライフは生き延びたが、翌1633年春、遺体の帰国の途中に寄ったヴォルガストで死んだ。皮はミョウバンと塩と小麦粉で処理され、木の骨組みに張ってストックホルムの王室武器庫に飾られた。博物館によれば現存最古の馬の剥製で、王の血に染まった肌着とともに今も同館にある。
出典・参考資料