レオニード・ブレジネフ

ブレジネフ

Brezhnev, Leonid Il'ich

1906年12月19日 – 1982年11月10日 (75歳没)

ロシア 政治家

レオニード・ブレジネフの人物情報

ソ連の政治家。ウクライナの工業町カメンスコエの労働者の家に生まれ、測量技師や冶金技師を経て党の道に進み、独ソ戦には政治将校として従軍した。1964年にフルシチョフを解任して党第一書記(1966年から書記長)となり、亡くなるまで18年間ソ連を率いた。米国との緊張緩和(デタント)を進めたが、1968年にはチェコスロヴァキアに軍を送って「プラハの春」を潰し、1979年にはアフガニスタンに侵攻した。国内では作家シニャフスキーとダニエルの裁判(1966年)、ソルジェニーツィンの国外追放(1974年)、サハロフの流刑(1980年)と異論派を弾圧した。晩年は病で衰え、経済も停滞した。1982年に75歳で死去。

同時代の人物

ブレジネフは1906年12月19日の生まれ(新暦。旧暦では12月6日)。同じ年の9月には作曲家のショスタコーヴィチが生まれている。日本では坂口安吾が2か月早い。ノーベル物理学賞の朝永振一郎は1906年3月、湯川秀樹は1907年1月の生まれで、ブレジネフは2人のあいだに生まれたことになる。

フランスの詩人ルイ・アラゴンは、ブレジネフの44日後の1982年12月に亡くなった。アラゴンは共産党員でありながら、1966年のシニャフスキーとダニエルの裁判に抗議した一人だった。

年齢で見る生涯

  • 20歳(1927年) クルスクの土地整理技術学校を卒業し、測量技師になる。年末にヴィクトリア・デニソワと結婚
  • 38歳(1945年) 赤の広場の戦勝パレードに、第4ウクライナ方面軍の合同連隊の政治将校として参加
  • 57歳(1964年10月) フルシチョフを解任した党中央委員会総会で第一書記に選ばれる
  • 61歳(1968年8月) ワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキア侵攻。チェコスロヴァキア市民108人が死亡した。25日に赤の広場で抗議した8人は全員逮捕され、一部は精神病院に送られた
  • 72〜73歳(1979年12月) 12日の政治局会議でアフガニスタンへの介入を決め、25日にソ連軍が侵攻。10年続いた戦争で、ソ連兵約1万5千人、アフガニスタン人は少なくとも80万人が死亡したとされる
  • 75歳(1982年11月) 在任のまま死去

在任18年はスターリンに次ぐ長さである。後を継いだアンドロポフとチェルネンコも在任1年あまりで亡くなり、老いた指導部は行き詰まった。

人物のつながり

  • フルシチョフ:1954年、その提案でカザフスタンの処女地開拓を任された。引き立ててくれた上司を、1964年に解任に追い込んだ。
  • ニクソン:1972年のモスクワ会談で戦略兵器制限条約(SALT I)に調印した、デタントの相手。
  • アンドロポフ:1967年からKGB議長として異論派の弾圧を指揮した。アフガニスタン介入でも決定を主導したとされる。
  • チェルネンコ:1950年頃、モルドヴァの党組織で出会って以来の側近。

エピソード

俳優になりたかった測量技師の卵(16〜20歳・1923〜27年)

ブレジネフは子どものころ俳優に憧れていた。ドイツの歴史家シャッテンベルクによれば、クルスクの技術学校に通っていた時期には、弟や妹と一緒にアジプロ劇団「青いブラウス」の舞台に立ち、市の劇場でエキストラのアルバイトもしていた。妻ヴィクトリアの後年の回想として伝わる話では、1925年に学生寮のダンスで2人が出会ったとき、彼は先に彼女の友人を誘い、踊れないからと断られている。1960〜70年代になっても、宴席で椅子の上に立ち、好きな詩人エセーニンの詩をそらんじてみせたと同僚たちは回想する。シャッテンベルクは、調べて見えてきた彼の資質を「役者ぶり」と呼んでいる。

ニクソンを乗せて坂道を飛ばす(66歳・1973年)

ブレジネフは大の車好きで、各国から贈られた車は数え方によって49台とも300台以上ともいわれる。1973年6月の訪米では、ニクソンから新車のリンカーン・コンチネンタルを贈られた。キャンプ・デービッドで、彼はすぐに運転席に座り、大統領を助手席に招いた。ニクソンの回想録によれば、乗り込む大統領を見て警護の責任者は青ざめた。ブレジネフは「徐行、危険なカーブ」の標識がある急な下り坂に時速50マイル(約80キロ)以上で突っ込み、「スピードを落として」という声にも耳を貸さない。急ブレーキでカーブを曲がり切ると、ニクソンは「あなたは素晴らしいドライバーだ」と言うしかなかった。

書記長の手帳に並ぶ体重と水泳(69〜70歳・1976〜77年)

ブレジネフは戦時中から晩年まで、手帳にメモを書きつけていた。2016年に全3巻で刊行されたこの記録には、病が重くなった1970年代後半になると、日々の暮らしの覚え書きが目立つ。1976年5月16日には「朝、ひげを剃り、散髪し、頭を洗った」。1977年7月18日には「チェルネンコと会い、ドミノをやった」。ある年の8月28日には「朝食前の体重85.500。プールで2時間泳いだ後85.150」とある。その間に、国の重い決定はごく少数の側近の手に移っていった。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Брежнев, Леонид Ильич」「Вторжение стран Варшавского договора в Чехословакию」「Процесс Синявского и Даниэля」「Сахаров, Андрей Дмитриевич」「Андропов, Юрий Владимирович」「Черненко, Константин Устинович」「Коллекция автомобилей Брежнева」、Wikipedia「レオニード・ブレジネフ」
  • Настоящее время(currenttime.tv)掲載のシュザンネ・シャッテンベルクへのインタビュー(2018年6月4日。https://www.currenttime.tv/a/29270162.html )。伝記の英訳 Schattenberg『Brezhnev: The Making of a Statesman』の紹介文(ブレーメン大学東欧研究所)も参照
  • ダンスでの出会い:Wikipedia(ru)「Брежнев, Леонид Ильич」の「Жена и дети」節(ヴィクトリアの回想として記載。原典は未確認)
  • Nixon『RN: The Memoirs of Richard Nixon』(Richard Nixon Foundation「Town Car Diplomacy 40 Years Ago」2013年6月26日に引用)。車の台数と、車好きを伝える護衛ウラジーミル・メドヴェージェフの回想:Wikipedia(ru)「Коллекция автомобилей Брежнева」、АиФ「Поцелуй генсека. Каким на самом деле был Леонид Брежнев」(2016年12月19日)
  • 『Л. И. Брежнев. Рабочие и дневниковые записи』全3巻(Историческая литература、2016年)。記録の文面は МК「Рассекречены тайные дневники Брежнева」(2015年12月16日。РГАНИの展示)と Комсомольская правда「Рассекречены дневники Брежнева: Утром брился, мыл голову」(2018年12月29日。РГАНИ・連邦警護庁提供)で確認