コンスタンティン・チェルネンコ

チェルネンコ

Chernenko, Konstantin Ustinovich

1911年9月24日 – 1985年3月10日 (73歳没)

ロシア 政治家

コンスタンティン・チェルネンコの人物情報

ソ連の政治家。シベリアのエニセイ川沿いの村ボリシャヤ・テスの農家に生まれ、コムソモール(共産青年同盟)の活動家から、中国との国境の警備隊員を経て党の仕事に入った。モルドヴァでブレジネフに認められ、1965年から17年間、党のあらゆる文書が通る中央委員会総務部の部長を務めて側近中の側近となった。1984年2月、アンドロポフの後を継いで72歳で書記長に就いたが、肺気腫が悪化し、在任1年あまりの1985年3月に73歳で死去した。生年月日は1911年9月24日(新暦)とされてきたが、近年、出生と洗礼の記録をもとに1912年10月1日(新暦)生まれとする説も出ている。

同時代の人物

チェルネンコは1911年9月24日の生まれ(新暦。旧暦では9月11日)。『蠅の王』の作家ウィリアム・ゴールディングは、そのわずか5日前にイギリスで生まれている。同じ年の2月には、冷戦で向き合う米大統領レーガンと、日本の岡本太郎が生まれた。書記長と大統領は同い年だったが、チェルネンコの死後もレーガンは19年生きた。

新たに見つかった記録どおり1912年10月生まれだとすると、作家の新田次郎や作曲家のジョン・ケージと同い年になる。

年齢で見る生涯

  • 19歳(1930年秋) 国境警備隊に志願する。カザフスタンと中国の国境にあるホルゴス哨所で1933年まで勤め、1931年に入党した
  • 36〜37歳(1948年) モルドヴァ共産党中央委員会の宣伝扇動部に移る。1950年代の初め、ここでブレジネフと出会う
  • 53〜54歳(1965年) 党中央委員会総務部長。1982年まで務める
  • 67歳(1978年11月) 政治局員になる
  • 71歳(1982年11月) ブレジネフの死後の党中央委員会総会で、後継を争ったアンドロポフを自ら書記長に推す
  • 72歳(1984年2月13日) アンドロポフの死を受けて書記長に選ばれる。4月には最高会議幹部会議長を兼ねた
  • 73歳(1985年3月10日) 死去

ブレジネフは57歳、アンドロポフは68歳で書記長になった。72歳での就任は歴代でいちばん遅く、新説の生年に従っても71歳である。

人物のつながり

  • ブレジネフ:モルドヴァで知り合って以来、亡くなるまで仕えた。補佐官ペチェネフによれば、晩年のブレジネフにはチェルネンコを通さなければ会えなかった。
  • アンドロポフ:ブレジネフの後継を争った相手。チェルネンコは1982年の総会で彼を推し、その死後に後を継いだ。
  • ミハイル・ゴルバチョフ:1984年2月の総会でチェルネンコに票を投じた。チェルネンコが病床にあるあいだ政治局の会議を取り仕切り、その死の翌日に書記長となった。

エピソード

「レーニンとは誰か?」とエセーニンで反論(10代後半・1920年代後半)

晩年のチェルネンコが補佐官プリブイトコフに語った思い出である。故郷近くのノヴォショロヴォの農民青年学校では、マヤコフスキーが称えられ、エセーニンは「我々の詩人ではない」と叩かれていた。ある集まりで「活動家のくせに寮でエセーニンを読んでいる」と指摘された彼は、思想上の敵を知るためにも読むべきだと言い返し、物語詩「アンナ・スネーギナ」の一節をそらんじた。「レーニンとは誰?」と問われ、「彼は、あなたたちだ」と答える場面である。それでも口頭の戒告は受けた。妻アンナによれば、本人も人に隠れて詩を書いていた。

仲間とボートを買ってエニセイ川を下る(19歳・1930年)

1930年秋、地区コムソモール委員会で働いていたチェルネンコは、同僚2人と国境警備隊に志願した。プリブイトコフが本人から聞いた話では、3人は汽船を待ちきれず、金を出し合ってボートを買い、エニセイ川を自力で下ってクラスノヤルスクへ向かった。配属先は中国国境のホルゴス哨所で、教育隊で最初に武器を持って就いた任務は、前日の戦闘で死んだ仲間の棺の儀仗だったという。49年後の1979年8月、政治局員としてこの哨所を再訪した彼は、記念にクルミの木を植えた。

病室に作られた投票所(73歳・1985年)

1985年2月、ロシア共和国最高会議の選挙に立候補したチェルネンコは、すでに病室から出られず、22日の集会ではモスクワ市党第一書記グリシンが演説を代読した。24日の投票日、テレビは書記長が一票を投じる姿を流す。プリブイトコフによれば、そこはクレムリン病院の彼自身の病室で、絨毯とカーテンで飾られ、投票箱と選挙委員が並べられていた。立っていられない彼を、護衛が背中から支えていたという。補佐官ペチェネフは、「書記長はとうに死んだ」という噂を打ち消すための撮影だったと回想している。28日には病室で議員証を受け取る映像も流れたが、10日後に彼は亡くなった。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Черненко, Константин Устинович」(経歴の年月日、総会でのアンドロポフ推薦、ゴルバチョフの投票、1983年8月の食中毒、死因、ボリシャヤ・テスの水没)、Большая российская энциклопедия「Черненко Константин Устинович」(ホルゴス哨所での勤務、総務部長)、Родина「ИИ установил точную дату рождения генсека Константина Черненко」(2026年3月12日)、РИА «Новый День»「Лжеюбилей Черненко: сибирский ученый раскрыл настоящую дату рождения генсека ЦК КПСС」(2026年9月23日)、ussr.rhga.ru 掲載のソ連史(著者は本文で「А.Ш.」と署名。書名は未確認)第11章「Предвыборная кампания (январь–март 1985 г.)」(2月24日と28日のテレビ出演、ゴルバチョフが書記長不在の政治局を主宰したこと)、AP配信(The Battalion、1985年2月25日。投票の映像、2日前の演説の欠席)、The Christian Science Monitor(1985年3月4日。グリシンの代読と2回のテレビ出演)
  • В. В. Прибытков『Аппарат』(Молодая гвардия、2002年。gensek.ru 掲載の全文)。エセーニンの件は1983年にクリミアで本人から聞いた話として、エニセイ川とホルゴスの件は本人の話として、病室の投票は著者の見聞として書かれている
  • Коммерсантъ-Власть「"Голова у Черненко оставалась светлой"」(2001年9月25日、No.38。エヴゲーニー・ジルノフによるヴァジム・ペチェネフへのインタビュー。kommersant.ru/doc/283990)