ユーリ・アンドロポフ

アンドロポフ

Andropov, Yurii Vladimirovich

1914年6月15日 – 1984年2月9日 (69歳没)

ロシア 政治家

ユーリ・アンドロポフの人物情報

ソ連の政治家。北カフカスのスタヴロポリ県の鉄道駅で生まれ、ルイビンスクの河川技術学校を出てコムソモール(共産青年同盟)の活動家になった。駐ハンガリー大使として1956年のハンガリー動乱に立ち会い、ソ連軍による鎮圧を後押しした。1967年から15年間KGB議長を務め、異論派を国外追放や流刑、精神病院への強制収容で抑え込んだ。1982年にブレジネフの後を継いで書記長となり、職場の規律の引き締めや汚職の摘発に乗り出したが、持病の腎臓病が悪化し、在任1年3か月の1984年に69歳で死去した。

同時代の人物

アンドロポフは1914年6月15日の生まれ(新暦。旧暦では6月2日)。同じ年の2月には、ビート文学の作家ウィリアム・バロウズが生まれている。秘密警察の長と、麻薬と放浪を書いた作家が同い年である。日本では建築家の丹下健三が9か月早い1913年9月の生まれ。

冷戦で向き合ったレーガンと、後継者のチェルネンコは、ともに1911年生まれで3歳年上。レーガンは2004年まで生きた。

年齢で見る生涯

  • 26歳(1940年6月) カレロ=フィン共和国のコムソモール中央委員会第一書記になる
  • 40歳(1954年7月) 駐ハンガリー大使に就任
  • 42歳(1956年10〜11月) ハンガリー動乱。ソ連軍の介入を支持し、鎮圧ではハンガリー人2,652人が死亡した。首相ナジ・イムレはのちに1958年に処刑された
  • 52歳(1967年5月) KGB議長に就任
  • 55歳(1970年1月) 党中央委員会に、「精神病者」の把握・登録と、場合によっては隔離を進める体制づくりを求め、政治局が承認した。異論派を「精神病」と診断して特別精神病院に送る弾圧は、1977年に世界精神医学会がソ連を非難する事態にまで至った
  • 68歳(1982年11月) ブレジネフの死の2日後に書記長に選ばれる
  • 69歳(1983年9月1日) サハリン西方のモネロン島付近で、ソ連の戦闘機が大韓航空007便を撃墜。日本人28人を含む269人全員が死亡した。ソ連は数日間撃墜を認めず、9月6日、米国は日本の傍受施設が録音したソ連軍パイロットの交信を国連安全保障理事会で公開した
  • 69歳(1984年2月) 腎不全で死去

KGB議長として過ごした15年に比べ、書記長の在任はわずか1年3か月で、その後半はほとんど病床にあった。

人物のつながり

  • ブレジネフ:KGB議長に起用され、異論派の弾圧を任された。その死後、後継の書記長に就いた。
  • チェルネンコ:ブレジネフの後継を争った相手。アンドロポフの死後に書記長となった。
  • レーガン:1983年の大韓航空機撃墜を「人道に対する罪」と非難し、米ソの緊張は頂点に達した。

エピソード

包囲された大使公邸(42歳・1956年)

1956年10月にブダペストで蜂起が起きると、大使アンドロポフはソ連軍の投入を強く支持した。英国の歴史家アンドルーによれば、彼は大使館の窓から、憎まれていた国家保安庁の将校たちの遺体が街灯に吊るされているのを見た。のちに「誰にも統制されない10万の群衆が通りに出てくるのがどういうことか、あなたにはわからない」と外交官トロヤノフスキーに語っている。公邸を群衆に囲まれた妻タチヤナは心身を損ない、生涯、群衆を恐れるようになったと伝えられる。小さな集まりが体制を倒す運動に育つことへのこの恐れは「ハンガリー・コンプレックス」と呼ばれ、KGB議長時代の異論派弾圧につながったとみられている。

病床から16連の返し詩(50歳・1964年)

1964年6月15日、50歳になったアンドロポフに、党中央委員会の顧問グループが、プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』の恋文をもじった詩の祝辞を贈った。心臓発作で入院中だった彼は16連の詩で返す。病院で日光浴をし、ソクラテスだって座って考えたと茶化し、祝辞は甘すぎるが記念日だから許すと書いて、「異論があれば、次に会ったときに議論しよう」と結んだ。顧問のシャフナザーロフは、この戯れ歌ほど彼の人柄を表すものはないと回想している。一方、KGBに投獄された詩人ラトゥシンスカヤは、懲罰房の床に座っていたとき、隣の房のラジオから書記長アンドロポフの詩の朗読が聞こえてきたと回想している。

サマンサの手紙(68〜69歳・1983年)

1982年11月、米メイン州の10歳の少女サマンサ・スミスは、「どうして世界を、少なくとも私たちの国を征服したいのですか」と新書記長に手紙を書いた。1983年4月19日付の返事で、アンドロポフは両国の間に戦争が起きないよう全力を尽くしていると書き、「ご両親が許すなら、夏に遊びにおいで」と招いた。7月、サマンサはソ連を訪れ、クリミアのアルテク少年団キャンプで過ごしたが、アンドロポフは「多忙」を理由に会わなかった。腎臓病はすでに重かった。12月、サマンサは神戸の子どもの国際シンポジウムに招かれている。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Андропов, Юрий Владимирович」「Катастрофа Boeing 747 под Сахалином」「Смит, Саманта」、Wikipedia(en)「Tatyana Andropova」、Огонёк「Свинцовая осень 56-го」(フョードル・ルキヤノフ、2011年10月24日。kommersant.ru/doc/1798056。ハンガリー側の死者数、ナジの処刑、アンドロポフがゲレーの派兵要請を支持したこと)、Bukovsky Archive「Abuse of Psychiatry, Krasnodar KGB report (22 Jan '70, Pb 151/XIII)」(アンドロポフの1970年1月19日付要請と政治局決定)、外務省『外交青書』1984年版(日本人犠牲者28人、日米による交信記録の安保理提出)、CIA Reading Room「Official U.S. Government Release Regarding the South Korean Civilian Airliner Shootdown」(1983年9月6日のカークパトリック大使の安保理演説)
  • ハンガリー:Benjamin Nathans「The Real Power of Putin」(The New York Review of Books、2016年9月29日号。アンドルーの記述と「ハンガリー・コンプレックス」の説明)、トロヤノフスキー『Через годы и расстояния』(ru.wikipedia の引用で確認)、妻の健康:Wikipedia(en)「Tatyana Andropova」、Дилетант「Несчастные жёны Андропова」(2022年6月17日)
  • 詩:Г. Шахназаров『С вождями и без них』(2001年。ru.wikipedia の引用で確認)、Г. А. Арбатов『Затянувшееся выздоровление (1953–1985 гг.)』(1991年、138〜139頁。同)、Радио Свобода「Памятник Андропову в Петрозаводске」(2004年6月9日、ラトゥシンスカヤの発言。svoboda.org/a/24191057.html)
  • サマンサ:Wikipedia(ru)「Смит, Саманта」(アンドロポフの返信の全文を収録)