ゲオルギー・マレンコフ
マレンコフ
Malenkov, Georgy Maximilianovich
1902年1月8日 – 1988年1月14日 (86歳没)
ゲオルギー・マレンコフの人物情報
ソ連の政治家。ロシア南部のオレンブルクに生まれた。生年月日には諸説あり、日本の辞典では1902年1月8日とするものが多いが、2016年に古文書から1901年12月6日とする説が出ている。1930年代から党の人事部門を握ってスターリンの側近となり、大粛清や戦後の「レニングラード事件」で弾圧を進めた。1953年のスターリンの死後に首相となり、重工業一辺倒を改めて農民の税を軽くする「新路線」を打ち出した。1955年に首相を辞任し、1957年にフルシチョフ追放に失敗してカザフスタンの発電所長に左遷された。1988年に86歳で死去。
同時代の人物
日本の作家住井すゑは1902年1月7日生まれで、日本の辞典に多い説に従えば、マレンコフとはわずか1日違いになる。同じ1902年には、イランのホメイニーと米作家のスタインベックも生まれた。ホメイニーはマレンコフの死の翌年に亡くなっている。
ソ連の指導者では、フルシチョフが約8歳年上、ブレジネフが約5歳年下にあたる。失脚した後も30年あまり生きたマレンコフは、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコの死をすべて見届けた。
年齢で見る生涯
51歳で頂点に立ったが、首相の座にいたのは2年足らずだった。86年の生涯のうち、失脚した55歳からの30年あまりを表舞台の外で過ごしている。
人物のつながり
エピソード
「マレンコフが来て、ブリヌイにありついた」(51歳・1953年8月)
1953年8月8日、首相マレンコフは最高会議で演説し、コルホーズ農民の自留地に課す義務供出を大幅に減らすと表明した。現金で納める農業税は平均でほぼ半分にし、過去の滞納分は帳消しにするという。重い税に苦しんでいた農村はこれを歓迎し、「マレンコフが来て、ブリヌイ(ロシア風のパンケーキ)にありついた」と言い合ったと伝えられる。ところが1955年1月の党中央委員会総会で、フルシチョフはこの演説を「安っぽい人気取り」と批判した。重工業と軽工業の伸び率を比べてみせたことも、理論的な誤りだとされた。
核戦争は「世界文明の滅亡」(52歳・1954年3月)
1954年3月12日、最高会議選挙を前にした有権者集会で、マレンコフは「現代の兵器による新たな世界戦争は、世界文明の滅亡を意味する」と述べた。当時のソ連の公式見解では、戦争で滅びるのは資本主義のほうだった。ソ連の指導者が核戦争の結果をこう語ったのは初めてとされる。だが翌月には従来の言い回しに戻り、この発言は失脚の理由の一つに数えられた。1955年2月8日、最高会議では本人が座っている前で、辞任の申し出が別の人物によって読み上げられている。
失脚した元首相、発電所長になる(55〜66歳・1957〜68年)
1957年、マレンコフはカザフスタン東部のウスチ・カメノゴルスク水力発電所の所長に左遷され、1958年夏には炭鉱の町エキバストゥズの発電所に移ったとされる。地元の展示を企画した財団によれば、重油と混ぜて燃やしていた地元の石炭を、彼の指示で効率よく使える方式に改め、燃料費を下げた。息子アンドレイの回想によれば、学歴のない作業員に勉強させ、フルシチョフ支持を公に表明すればモスクワへ戻すという誘いは断った。1961年11月には党から除名されている。
出典・参考資料