ルーホッラー・ホメイニー
ホメイニー(別名:ホメイニ)
Khomeini, Ruhollah
1902年9月24日 – 1989年6月3日 (86歳没)
ルーホッラー・ホメイニーの人物情報
イランのイスラム法学者、政治家で、イラン・イスラム共和国の初代最高指導者。コムで学んで高位の法学者となった。1963年、パフラヴィー国王の政策を公然と批判して逮捕され、翌年国外に追放される。14年余りの亡命中に、法学者が国を導く「法学者の統治」の理論を説いた。1979年2月に帰国して王制を倒し、同年末に最高指導者となる。在任中には米国大使館人質事件やイラン・イラク戦争が起き、反対派への弾圧や政治犯の大量処刑も行われた。1989年、86歳で死去した。
同時代の人物
ホメイニーが生まれた1902年には、アメリカの作家スタインベックと、スターリンの後を継いだソ連のマレンコフが生まれている。日本では、『橋のない川』の作家住井すゑと画家の猪熊弦一郎が同い年である。
ホメイニーが亡くなった1989年には、1月にダリ(84歳)、2月9日に手塚治虫(60歳)も世を去っている。手塚の死の5日後、ホメイニーは小説『悪魔の詩』をめぐるファトワー(宗教令)を出した。
年齢で見る生涯
権力を握ったのは、14年余りの亡命を終えた76歳のときだった。8年に及んだ戦争の死者は、両国で50万人を超えるとする推計が多い。
人物のつながり
エピソード
新年の花と、瓶詰めのフランスの土(76歳・1978〜79年)
1978年10月、イラクを去ったホメイニーは、パリの西約40kmの村ノーフル・ル・シャトーに落ち着いた。道の向かいの果樹園のリンゴの木の下で礼拝し、信者や記者の質問に答えた。約4か月で演説は65回、インタビューは117回を数えたという。村は人と報道陣であふれたが、西暦の新年を迎える晩には、隣人たちに祝いの手紙を添えて花を贈った。村を去る前にも住民に贈り物をし、迷惑をかけたことをわびている。住民の中には、ろうで封をした瓶にフランスの土を詰めて贈った人もいたと伝えられる。
「ヒーチ(何も)」(76歳・1979年)
1979年2月1日、テヘランへ向かうエールフランスのチャーター機には、120人ほどの各国の記者が同乗していた。米ABCテレビのピーター・ジェニングスが帰国の気持ちを尋ねると、側近ゴトブザーデの通訳を通して返ってきたのは「ヒーチ(何も)」の一言だった。この答えはいまも論争の的で、祖国への冷淡さだとする批判もあれば、神秘主義の境地だとする解釈もある。同行した側近フェルドウスィープールの回想によれば、後日ホメイニー自身は「私にとって、イランの土もイラクの土もフランスの土も変わらない」と説明した。ただし、人々の犠牲と熱狂に対する思いは別だとも語ったという。
「酒場の扉を開けよ」(81〜86歳・1984〜89年)
1989年6月の死から3週間足らずで、息子アフマドが父の詩を一編、テヘランの新聞『ケイハーン』に寄せた。「恋人よ、そなたの唇のほくろに、私はとらわれた」と始まる恋の詩で、「酒場の扉を開けよ、昼も夜も。私はモスクにも学院にも嫌気がさした」という一句まである。酒をうたう詩はオマル・ハイヤーム以来ペルシアに多く、神秘詩では酒や恋人が神への愛のたとえになる。それでも、モスクと学院を何より重んじた法学者の詩として、多くの信奉者を驚かせた。詩の多くは晩年、息子の妻ファーテメ・タバータバーイーにせがまれて、彼女が贈ったノートや紙切れに書きつけたものだという。1993年、『イマームの詩集』として刊行された。
出典・参考資料