アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン
ヴァレンシュタイン
Waldstein, Albrecht von
1583年9月24日 – 1634年2月25日 (50歳没)
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインの人物情報
ボヘミア(現在のチェコ)の軍人。プロテスタントの小貴族の家に生まれ、のちにカトリックに改宗した。反乱貴族から没収された土地を買い集めてフリートラント公となり、1625年、皇帝フェルディナント2世のために自前で大軍を集めて総司令官に就いた。占領地に「軍税」を課して軍を養う仕組みは住民を絞り上げ、兵の略奪も絶えなかった。1630年に罷免され、翌年呼び戻されたが、1634年、反逆を疑われてエーガー(現チェコのヘプ)で自軍の将校に殺された。
同時代の人物
2歳下には、皇帝と対立したフランスの宰相リシュリューと、ドイツの作曲家ハインリヒ・シュッツがいる。日本では、絵師の岩佐又兵衛が5歳ほど上にあたる。
殺される前年の1633年、ロレーヌの版画家ジャック・カロが、兵の略奪や処刑を描いた連作『戦争の惨禍』を出した。当時12歳ほどだったグリンメルスハウゼンは、のちに従軍体験から『阿呆物語』を書く。この戦争の素顔は、彼らの作品に残っている。
年齢で見る生涯
日付はグレゴリオ暦による(ボヘミアは1584年に切り替えた。DBの生没日もグレゴリオ暦で、ユリウス暦では1583年9月14日生まれ、1634年2月15日没)。
財産のほとんどない小貴族の家に生まれ、結婚から公爵になるまで16年ほどしかかかっていない。総司令官として過ごした期間は、罷免をはさんで合わせて8年に満たない。
人物のつながり
エピソード
匿名で頼んだ星占いに、16年後に「答え合わせ」を書き込む(24〜25歳・1608年)
まだ無名だった1608年、ヴァレンシュタインは名を伏せ、仲介者を通じてケプラーに星占いを頼んだ。ケプラーは「目覚めた、活発で、勤勉で、落ち着かない気質」と書いたが、図の中央には「Waitstein」と読める暗号の書き込みがあり、依頼主を知っていた可能性もある。1624年、彼はこの文書の余白に実際の出来事を書き込んで返し、修正を求めた。研究者の検証では、最初の予言はほとんど外れていた。ケプラーは修正版で「本人は余白に、9年に結婚したと書いている」と記し、修正後は1609年によく合うと説明している。
宮殿の天井に描かせた木星の衛星(40〜46歳・1624〜30年)
ヴァレンシュタインは、プラハ城の下の26軒の家と6つの庭、2つのれんが工場の跡地に宮殿を建てた。大広間の天井では、軍神マルスが有翼の馬の戦車に乗っている。上の階の「占星術の回廊」の装飾には、ガリレオに学んだピエローニが関わった。そこにはガリレオが望遠鏡で見つけたばかりの木星の4つの衛星と、土星の「2つの衛星」が描かれている。土星の「衛星」の正体は、実は環である。宮殿はいまチェコ上院の議事堂になっている。
5通のうち1通だけ残った誓約書(50歳・1634年)
1634年1月12日、ピルゼンの陣営で47人の将校が、ヴァレンシュタインに「死ぬまで」の忠誠を誓う文書に署名した。ウィーンはこれを反逆とみなし、1月24日に罷免を決める。2月25日の夜、彼は逃れた先のヘプで、皇帝に忠実な大尉デヴァルーに矛槍で刺し殺された。現場の家はいまヘプ博物館で、そのとき使われたとされる矛槍を展示している。皇帝は誓約書を探させ、5通のうち4通は処分されたとみられる。残る1通は署名者シャフゴッチュがシレジアに持ち帰っていた。彼は翌年処刑されたが、文書は生き延び、2024年にベルリンのドイツ歴史博物館が買い取った。
出典・参考資料