ウー・ヌー

ウー・ヌー

ウーヌー

U Nu

1907年5月25日 – 1995年2月14日 (87歳没)

ミャンマー 政治家

ウー・ヌーの人物情報

ビルマ(ミャンマー)の政治家で、1948年の独立とともに初代首相となった。学生運動、タキン党を経て独立運動に加わり、日本占領期にはバー・モウ政権の外相を務めた。1947年に暗殺されたアウンサンの後を継ぎ、独立後は共産党や少数民族の武装反乱に揺れる国を率いた。敬虔な仏教徒で、第6回仏典結集を主催し、1961年には仏教を国教とした。1962年のネ・ウィンのクーデターで失脚し、4年あまり拘束された。のちに亡命先から武力でのネ・ウィン打倒を目指し、1988年の民主化運動のさなかには暫定政府を宣言した。劇作家・翻訳家としての顔も持っていた。

同時代の人物

ウー・ヌーが生まれた1907年には、日本で作家の井上靖と物理学者の湯川秀樹が生まれている。井上靖はウー・ヌーより19日早い生まれである。湯川がノーベル物理学賞を受けた1949年、同い年のウー・ヌーは独立したばかりの国で内戦の只中にいた。

ビルマの政治家では、親友のウ・タントが2歳下、アウンサンが8歳下である。アウンサンは32歳で暗殺され、ウ・タントは65歳で亡くなった。ウー・ヌーは87歳まで生き、2人より20年以上長く生きた。

年齢で見る生涯

  • 28歳(1936年2月) ラングーン大学学生同盟の議長として退学処分を受け、学生ストライキの発端となる
  • 36歳(1943年8月) 日本の後押しで「独立」したバー・モウ政権の外相に就く
  • 40歳(1948年1月4日) ビルマ連邦の独立とともに初代首相となる
  • 47歳(1954年) 6月、周恩来と共同声明を出し、平和五原則を確認する。同じ年に第6回仏典結集を開く(1956年まで)。11月、日本との平和条約と賠償協定が結ばれる。日本が戦後に結んだ最初の賠償協定である
  • 48歳(1955年) イギリス、アメリカを回り、7月には来日する
  • 54歳(1961〜62年) 1961年8月、仏教を国教とする法律が成立する。翌1962年3月2日、ネ・ウィンのクーデターで拘束される
  • 73歳(1980年7月) 恩赦に応じて亡命先から帰国する
  • 81歳(1988年9月) 民主化運動のさなか、自らを「合法的な首相」として暫定政府を宣言する。翌年末から自宅軟禁となり、解放されたのは84歳のときだった

首相を務めたのは通算で12年ほどだが、拘束、亡命、軟禁の歳月はそれより長い。それでも80歳を過ぎて、なお政権に名乗りを上げた。

人物のつながり

  • アウンサン:1936年の学生ストライキをともに戦った8歳下の同志。1947年の暗殺後、ウー・ヌーが反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を継いだ。
  • ウ・タント:大学時代からの親友。1951年から57年まで首相秘書官を務め、のちに国連事務総長となった。
  • クレメント・アトリー:1947年10月、アトリーと「ヌー=アトリー協定」を結び、翌年の独立を確定させた。
  • ネ・ウィン:1958年に選挙管理内閣を任せた国軍の司令官。1962年にクーデターでウー・ヌーを追い、26年に及ぶ軍事政権の時代を開いた。

エピソード

独立運動家がカーネギーを訳す(30歳前後・1930年代後半)

反英運動の若き闘士だった1930年代、ウー・ヌーはデール・カーネギーの『人を動かす』(原題 How to Win Friends and Influence People、1936年刊)をビルマ語に訳した。ビルマ語の題は『人の上に立つ人になる方法』といった意味である。同じころ、仲間とナガニ図書クラブを興し、マルクス主義の古典の翻訳も広めていた。シャン人の通信社S.H.A.N.の論説によれば、カーネギーの訳書は独立後、高校の教材の一つとなった。

戯曲がハリウッド製作の映画に(44〜46歳・1951〜53年)

首相在任中の1951年、ウー・ヌーは戯曲『人民の勝利の声』を書いた。共産主義者のために一家が引き裂かれる筋立てである。「ビルマのバーナード・ショー」と呼ばれたいと願っていたとも伝えられる。これをハリウッドのカスケード・ピクチャーズが、ビルマでのロケで映画にした。製作を手配したのは、反共を掲げるアメリカの「自由アジア委員会」である。のちのアジア財団で、これがその最初の長編映画事業となった。1967年には、この団体がCIAの資金を受けていたことが明らかになっている。1953年8月、ネルーはウー・ヌーへの手紙で戯曲を夢中で読んだと書き、映画がデリーに来たら観たいと伝えた。

アメリカの援助を断り、アメリカに小切手を贈る(48歳・1955年)

1953年3月、ウー・ヌー政権はアメリカの経済援助の打ち切りを申し入れた。ビルマ北東部に居座る国民党軍の残党を、アメリカが陰で支えていると見たためである。ところが1955年に訪米したウー・ヌーは、6月29日付でアイゼンハワー大統領に手紙を書き、5,000ドルの小切手を添えた。ビルマの解放戦で命を落としたり傷ついたりしたアメリカ兵の子どもたちのために使ってほしい、という趣旨である。援助を断った国の首相から、逆にお金を贈られた形になる。大統領は7月22日付の返書で、在郷軍人会など3団体に3等分して託したと伝えた。

出典・参考資料

  • Wikipedia「ウー・ヌ」「ウ・タント」、Wikipedia(en)「U Nu」「U Thant」「The People Win Through」「Maung Maung Ta」、ဝီကီပီးဒီးယား「ဦးနု」(ビルマ語版Wikipedia)、コトバンク「ウー・ヌ」「平和五原則」、外務省「日本国とビルマ連邦との間の賠償及び経済協力に関する協定」、外交青書(昭和40年版)、アジア歴史資料センター「ビルマ国ウ・ヌ首相国賓待遇に関する件」(Ref.A22100364100、1955年7月7日)、Kyoto Review of Southeast Asia「Tar Tei Sa Nay Thar (A child born on Saturday)」 https://kyotoreview.org/?p=1107
  • ဝီကီပီးဒီးယား「ဦးနု」(カーネギーの訳書の題名、戯曲の内容)
  • S.H.A.N.「To ethnic leaders: Time to go back to school」(BNI Online、2013年8月27日) https://www.bnionline.net/en/node/12649 (高校の教材)
  • Wikipedia(en)「U Nu」(1930年代後半の翻訳、ナガニ図書クラブ)
  • Sangjoon Lee「Creating an anti-communist motion picture producers' network in Asia」『Historical Journal of Film, Radio and Television』37巻3号(2017年)(アジア財団の最初の長編映画事業、1953年公開)
  • Wikipedia(en)「Maung Maung Ta」(カスケード・ピクチャーズ、自由アジア委員会、ビルマでのロケ)
  • MuckRock「The stolen history of the CIA and the Asia Foundation」(2017年)、国文学研究資料館リポジトリ「自由アジア協会/アジア財団における文書管理の変遷」(CIAの資金、1967年の公表)
  • Nehru Archive「To U Nu, 23 August 1953」(検索結果の要約で確認)
  • India's World「U Nu and the Unquiet Birth of Burma」(「ビルマのバーナード・ショー」。検索結果の要約で確認)
  • The American Presidency Project「Letter to Prime Minister Maung Nu Concerning the Gift of the Burmese People」(1955年6月29日付のウー・ヌーの手紙と7月22日付の大統領の返書) https://www.presidency.ucsb.edu/documents/letter-prime-minister-maung-nu-concerning-the-gift-the-burmese-people
  • FRUS 1952–1954, Vol. XII, Part 2 ほか(1953年3月17日付の援助打ち切りの通告。検索結果の要約で確認)