フランソワ・ミッテラン

ミッテラン

Mitterrand, François

1916年10月26日 – 1996年1月8日 (79歳没)

フランス 政治家

フランソワ・ミッテランの人物情報

フランスの政治家。第二次世界大戦で捕虜となり、脱走後はヴィシー政権の機関で働きながら、1943年からレジスタンスに加わった。戦後は第四共和制で何度も大臣を務め、1965年の大統領選では左派の統一候補としてド・ゴールを決選投票に持ち込んだ。社会党を立て直し、1981年に第五共和制で初めての左派の大統領となる。死刑の廃止、地方分権、ルーヴルのピラミッドなどの「大事業」、ドイツとの協調による欧州統合を進め、2期14年務めた。退任の翌年、79歳で死去した。

同時代の人物

1916年生まれの同い年には、イギリス首相のハロルド・ウィルソン、DNAの二重らせんを解いたフランシス・クリックがいる。ソ連のピアニストエミール・ギレリスは、ミッテランよりちょうど1週間早く生まれた。

大統領として最初に向き合ったアメリカ大統領レーガンと、2代前の大統領ポンピドゥーは、ともに5歳上の1911年生まれである。同じ1911年生まれの岡本太郎は1996年1月7日に亡くなり、その翌日にミッテランが世を去った。

年齢で見る生涯

  • 23歳(1940年) 6月、負傷して捕虜となり、ドイツの収容所へ送られる
  • 25歳(1941年) 12月、3度目の試みで脱走に成功
  • 26歳(1943年) 春、ペタン元帥の勲章「フランシスク」を受ける。同じころ「モルラン」の偽名でレジスタンスに深く関わり始める
  • 39〜40歳(1956〜57年) アルジェリア戦争のさなかに法相を務める
  • 49歳(1965年) 大統領選で75歳のド・ゴールに決選投票で敗れるが、44.8%を得る
  • 64歳(1981年) 5月10日、大統領に当選
  • 68歳(1985年) 7月、政府の対外情報機関DGSEがニュージーランドでグリーンピースの船「レインボー・ウォリアー」を爆破し、写真家1人が死亡。国防相が辞任した。2005年、長官が「大統領の許可を得た」と記した文書が報じられた
  • 71歳(1988年) 再選
  • 77〜78歳(1994年) 9月、ヴィシー時代の経歴を描いた本が出て批判を浴びる。11月、雑誌が隠し子マザリーヌ(当時19歳)の存在を報じる
  • 79歳(1996年) 1月8日、パリで死去

1965年の初挑戦から16年、3度目の大統領選での当選だった。在任14年は、第五共和制の大統領として今も最長である。

人物のつながり

  • ド・ゴール:1964年の著書『永続するクーデター(Le Coup d'État permanent)』で第五共和制を「個人権力」と批判し、翌年の大統領選で決選投票に持ち込んだ。
  • ロベール・バダンテール:死刑廃止を訴えてきた弁護士。1981年6月に法相に起用し、死刑廃止法を担わせた。
  • ヘルムート・コール:西ドイツ首相。1984年9月22日、ヴェルダン近くのドゥオモン納骨堂で、雨の中、手を取り合って両国の戦死者を悼んだ。

エピソード

「死刑に反対だ」と言った元法相(64歳・1981年)

大統領選を前にした1981年3月16日、ミッテランはテレビ番組の最後に死刑について問われ、「ほかの問題と同じく、考えを隠すことはしない。私は心の底から死刑に反対だ」と答えた。司会者の一人の回想によれば、この日の新聞は「63%が廃止に反対」と報じていた。廃止は当選から5か月後に実現する。ただ、四半世紀前に法相だった1956〜57年には、アルジェリアの独立派45人がギロチンにかけられていた。歴史家ストラらの研究によれば、ミッテランは判明している恩赦の審議の大半で、恩赦に反対する意見を出していた。

「もうだめだ」から14年(65歳・1981年)

就任から半年後の1981年11月16日夜、エリゼ宮で医師たちはミッテランに、前立腺がんが骨に広がっていると告げた。統計上の余命は3か月から3年。主治医ギュブレールの著書によれば、ミッテランは「もうだめだ」と何度も繰り返したという。半年ごとに健康状態を公表すると約束していたが、病気は国家機密とされ、公表は1992年の手術のときまで伏せられた。ギュブレールの暴露本は死の9日後に出たが、遺族の申し立てで翌日に差し止められた。

毎年の岩登り(29歳・1946年〜)

1946年、ミッテランは義兄ロジェ・グーズに連れられ、ブルゴーニュ地方のソリュトレの岩に登った。妻ダニエルの実家グーズ家の人々や仲間が、戦時中に「毎年ここに登ろう」と誓い合っていたと伝えられる。以後、聖霊降臨祭の日曜に家族や友人と登るのが恒例になった。大統領に当選した直後の1981年の登山について、同行した義弟の俳優ロジェ・アナンは「いつもと同じ。違うのは記者が多いことだけ」と語っている。最後に登ったのは退任直後の1995年とされ、病のため頂上にはたどり着けなかった。

出典・参考資料

  • Élysée「François Mitterrand」(年譜)、Institut François Mitterrand「Introduction à l'inventaire des archives conservées par l'Institut François Mitterrand」(Caroline Piketty、2025年)、Encyclopædia Universalis「1er-12 septembre 1994」「17-25 septembre 1985」、Conseil constitutionnel(1965年大統領選の結果)、Wikipedia「フランソワ・ミッテラン」、Wikipédia(fr)「Pyramide du Louvre」
  • Public Sénat「Abolition de la peine de mort : « Si la loi existe, c'est un peu grâce à Duhamel et moi », déclare Jean-Pierre Elkabbach」
  • Benjamin Stora、François Malye『François Mitterrand et la guerre d'Algérie』(Calmann-Lévy、2010年)。Politis「Quand Mitterrand faisait tourner la guillotine」(2010年10月)による
  • 欧州人権裁判所「Éditions Plon c. France」判決(2004年5月18日。『Le Grand Secret』の内容と差し止めの経緯)
  • Acteurs publics「La vie politique en novembre 1981 : François Mitterrand "Je suis foutu"」(Gubler, Gonod『Le Grand Secret』による)
  • France Télévisions「François Mitterrand, une vie en Bourgogne」番組資料(francetvpro.fr)
  • TIME「France's New Look」(1981年6月29日)
  • The Connexion「Mitterrand's vineyard rock protected」