ハロルド・ウィルソン
ウィルソン
Wilson, James Harold
1916年3月11日 – 1995年5月24日 (79歳没)
ハロルド・ウィルソンの人物情報
イギリスの政治家で、労働党の首相(1964〜70年、1974〜76年)。ハダーズフィールドで、化学者の父と教師の母のもとに生まれた。オックスフォード大学で哲学・政治・経済学を学んで首席で卒業し、1945年に下院議員に初当選。2年後、31歳でアトリー内閣の商務院総裁となり、20世紀で最年少の閣僚となった。1963年、急死したゲイツケルの後を継いで党首となり、翌年の総選挙で政権を取った。在任中には死刑を停止する法律、同性愛の一部の非犯罪化、テレビと通信教育で学ぶオープン・ユニバーシティの創設が実現した。1976年3月、60歳の誕生日の5日後に突然辞任を表明した。
同時代の人物
ウィルソンが生まれた1916年には、のちのフランス大統領フランソワ・ミッテランが10月に、DNAの二重らせんを解いたフランシス・クリックが6月に生まれている。ミッテランが大統領になったのは、ウィルソンが首相を退いて5年後の1981年だった。 5歳上のフランス大統領ポンピドゥーは、ウィルソンが首相に返り咲いた1974年3月の翌月、在任中に亡くなった。
日本では、建築家の丹下健三が3歳上である。ウィルソンが総選挙に勝って首相になった1964年10月、東京では丹下が設計した代々木の競技場を会場の一つにオリンピックが開かれていた。
年齢で見る生涯
8歳で扉の前に立った少年は、48歳でその家の主になった。2度の政権を合わせて8年近く首相を務め、60歳になった直後に自分から退いている。
人物のつながり
エピソード
シリー諸島の休暇中に書いた「空の大学」の骨子(47歳・1963年)
1977年の講演でのウィルソンの回想によれば、党首になった1963年の復活祭の日曜、休暇で訪れたシリー諸島で「空の大学(University of the Air)」の骨子を書いたという。同じ年の9月にはグラスゴーの演説で、若くして学校を離れた技術者や工場の労働者、主婦にも、テレビと通信教育で大学水準の学びを届けると訴えた。政権を取ると計画を閣僚ジェニー・リーに託し、オープン・ユニバーシティは1969年に勅許を得て、1971年1月に最初の学生を迎えた。シリー諸島は彼が愛した休暇の地で、のちに葬られた場所でもある。
8歳で立った扉の前を、子どもたちに残す(58歳・1974年)
国立公文書館が2013年に公開した文書によれば、1974年12月、ロンドン警視庁は、ダウニング街の官邸側の歩道沿いにも柵を延ばし、観光客を向かいの歩道に寄せる案を出した。首席秘書官は首相宛てのメモで、英国人が通りを自由に歩く権利がまた削られるのは残念だが認めるほかないと書き、子どもが10番地の扉を背に記念写真を撮ることは妨げさせない、と添えた。それでもウィルソンは、通りの姿と市民の自由が大きく損なわれるとして、この案を退けたという。
名文句の「生みの親」も、いつ言ったか覚えていなかった(48歳・1964年頃)
「政治の世界では1週間は長い」は、ウィルソンの言葉として日本でも引かれる。ところが、最初にいつ言ったのかははっきりしない。名言研究家ナイジェル・リースは、首相に就いた直後の1964年のポンド危機のさなか、記者団との懇談で口にしたのが最初だろうと推定している。一方、記者ロバート・カーヴェルは、1960年の党大会でウィルソンが「48時間は政治では長い」と言ったのを覚えていた。当のウィルソンも、首相を退いたあとの1977年に尋ねられて、最初の場面を特定できなかったという。
出典・参考資料