ジョルジュ・ポンピドゥー
ポンピドゥー
Pompidou, Georges
1911年7月5日 – 1974年4月2日 (62歳没)
ジョルジュ・ポンピドゥーの人物情報
フランスの政治家。小学校教師の両親のもとオーヴェルニュ地方の村に生まれ、高等師範学校を出て文学の教授資格を首席で得た。高校の国語教師から、1944年にド・ゴールの官房に入り、ロスチャイルド銀行の幹部も務めた。1962年から6年余り首相として五月革命の収拾にあたり、ド・ゴールの辞任後の1969年に大統領に当選。それまでフランスが拒んできたイギリスのEC加盟を受け入れ、産業の近代化や現代美術センター(のちのポンピドゥー・センター)の建設を進めた。病を公表しないまま、1974年に在任中に62歳で死去した。
同時代の人物
1911年生まれの同い年には、アメリカ大統領のレーガンとソ連の書記長チェルネンコがいる。1980年代半ばに米ソの頂点で向き合う2人と同い年だが、ポンピドゥーはその10年前に世を去った。ほかに『蠅の王』のウィリアム・ゴールディング、映画音楽のニーノ・ロータ、エジプトの作家ナギーブ・マフフーズも同じ年の生まれである。
日本では岡本太郎が同い年である。岡本は1930年から40年までパリに住み、前衛芸術運動に加わっていた。ポンピドゥーが高等師範学校で学び、パリで教壇に立っていたのと同じころである。
年齢で見る生涯
33歳まで国語教師で、首相になったのは50歳。大統領の在任は4年9か月で、任期の途中で亡くなった第五共和制の大統領はポンピドゥーだけである。
人物のつながり
エピソード
記者会見の答えはエリュアールの詩(58歳・1969年)
1969年9月22日、エリゼ宮での記者会見の最後に、ラジオ局の記者がガブリエル・リュシエの件を尋ねた。未成年の教え子との恋愛で訴追された32歳の教師が、3週間前に自ら命を絶っていた事件である。長い沈黙のあと、大統領は「この件で考えたことをすべては申しません」と前置きし、詩人エリュアールの一節を口にした。「わかる者はわかればいい。私の悔恨、それは道理をわきまえた犠牲者、迷子の子どもの目をした……」。解放直後に髪を刈られて晒された女性たちを悼んだ詩である。答えを詩に託した大統領に、遺族を支持する側からは反発の声も上がった。
シカゴの騒動と、ニクソンの「代役」(58歳・1970年)
1970年2月、大統領として初の大きな外遊でアメリカを訪れた。フランスがリビアに戦闘機ミラージュを売却したことへの抗議デモが各地で起き、2月28日のシカゴでは夫妻が群衆に取り囲まれる騒ぎになる。夫人はニューヨークでの予定をすべて取りやめ、ポンピドゥーは旅程を切り上げることまで口にしたという。3月2日、ニクソン大統領が予定になかったニューヨークへ飛び、副大統領が出るはずだった歓迎晩餐会に現れた。乾杯の挨拶では「大統領が副大統領の代役を務めるのは合衆国史上初めて」と笑わせている。
未完に終わった「光の控えの間」(59〜62歳・1971〜74年)
現代美術を愛したポンピドゥーは、エリゼ宮の私邸部分の改装を、家具デザイナーのピエール・ポーランと、イスラエル出身の作家ヤーコフ・アガムに任せた。アガムの控えの間は、壁も天井も床のじゅうたんも幾何学模様で埋め尽くされ、見る角度で模様が変わる部屋だった。しかし1974年4月に大統領が亡くなったとき、部屋はまだ完成していなかった。後任のジスカール・デスタンが就任すると取り外されて倉庫にしまわれ、いまはポンピドゥー・センターの所蔵品になっている。
出典・参考資料