ホー・チ・ミン
ホー・チ・ミン
Hồ Chí Minh
1890年5月19日 – 1969年9月2日 (79歳没)
ホー・チ・ミンの人物情報
ベトナムの革命家・政治家。本名はグエン・シン・クンで、青年期はグエン・タット・タイン、パリ時代はグエン・アイ・クオック(阮愛国)と名乗った。1911年に船の厨房見習いとして祖国を出てから、約30年間フランス、イギリス、ソ連、中国などを転々とし、1930年にベトナム共産党(のちのインドシナ共産党)を創設した。1945年9月2日、ハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言して初代国家主席に就任。フランスとのインドシナ戦争、続くベトナム戦争を指導し、南北統一を見ずに1969年に亡くなった。1950年代の土地改革では多くの人が処刑・迫害され、のちに党指導部も誤りを認めている。ベトナムでは今も「ホーおじさん(Bác Hồ)」と呼ばれる。
同時代の人物
1890年生まれの同い年には、のちに敵味方として向き合う政治家が2人いる。フランスのド・ゴールと、アメリカのアイゼンハワーである。ド・ゴールの臨時政府は1945年以降インドシナの再支配に乗り出し、アイゼンハワー政権はフランス撤退後の南ベトナムを支えた。アイゼンハワーは1969年3月、ホーは同じ年の9月に亡くなっている。
ジャンルの外では、アガサ・クリスティ、カレル・チャペック、パステルナーク、写真家のマン・レイも同い年。マン・レイとは1920年代初めに同じパリにいたが、片や前衛芸術、片や写真の修整で食いつなぐ亡命活動家だった。日本では歌人の土屋文明が同じ1890年生まれで、ホーより21年長く生きた。
1歳上にネルー、3歳下に毛沢東がいる。アジアの独立・革命の指導者が、ほぼ同じ世代に集まっている。
年齢で見る生涯
国を出たのが21歳、戻ったのは50歳。人生のちょうど真ん中にあたる約30年を国外で過ごした。国家主席として過ごした24年間も、ほぼずっと戦争の時代だった。
人物のつながり
エピソード
「ご家族の生き生きとした思い出を」――写真修整屋の広告(31〜32歳・1921〜22年頃)
パリ時代のホーは、写真の修整で生計を立てていた。ベトナムで紹介されている当時の新聞広告は、「ご家族の生き生きとした思い出を残したい方は、グエン・アイ・クオックの家で写真の修整を。美しい写真、美しい額縁、45フラン」という文面である。フランス警察の監視報告によれば、それだけでは足りず、ランプの笠に絵を描いたり、「中国の骨董品」風の品に絵付けをしたりもしていた。のちに一国の主席になる人物が、パリの貧しい下宿から自分の名前入りの広告を出していたことになる。
皇帝を「竹の竜」と笑った戯曲(32歳・1922年)
1922年、阮朝の啓定帝(カイ・ディン)がマルセイユの植民地博覧会に合わせてフランスを訪れた。これに合わせてホーは、フランス語で戯曲『竹の竜(Le Dragon de bambou)』を書いた。竹を削って作った竜の置物は、見た目は立派でも何の役にも立たない。つまり皇帝はフランスの飾り物にすぎない、という皮肉である。ベトナム側の資料によれば、ジャーナリストのレオ・ポルデスが主宰する「フォーブール・クラブ」で上演されたという。ただし台本は今も見つかっておらず、どんな舞台だったかはわかっていない。
命日を1日ずらした国家(79歳・1969年)
ホーが亡くなったのは1969年9月2日の午前9時47分だった。9月2日は、24年前に彼自身が独立を宣言した建国記念日にあたる。党の政治局は、祝日と重ならないよう死去を「9月3日」と発表した。1968年に書き直した遺言では火葬を望み、遺灰は3つの陶器の箱に入れて北部・中部・南部に1つずつ納めるよう頼んでいた。しかし政治局は遺体を長く保存することにし、この部分は公表されなかった。正しい命日と遺言の全文が発表されたのは、20年後の1989年である。
出典・参考資料