オリバー・クロムウェル
クロムウェル
Cromwell, Oliver
1599年4月25日 – 1658年9月3日 (59歳没)
オリバー・クロムウェルの人物情報
イングランドの政治家・軍人。地方の地主で、熱心なピューリタンの下院議員だった。国王と議会の内戦では、40歳を過ぎて初めて軍務に就きながら騎兵隊を鍛え上げ、議会軍を勝利に導いた。1649年に国王を処刑して共和政を打ち立て、アイルランドとスコットランドを武力で制圧した。アイルランドでは守備兵とともに多くの住民を殺害した。1653年に護国卿となり、死ぬまで国を治めた。王政復古後の1661年、遺体は墓から掘り出されて「処刑」された。
同時代の人物
1599年には、スペインの画家ヴェラスケスとフランドルの画家ファン・ダイクも生まれている。のちに処刑されるチャールズ1世は1歳半ほど年下である。その王の肖像を数多く描いたのが同い年のファン・ダイクで、その三面肖像画をもとに王の胸像を彫ったのが1歳上のベルニーニだった。王と王を倒した男、王の姿を残した芸術家は同世代である。
日本では、狩野派の狩野探幽が3歳下にあたる。王冠を辞退した1657年、江戸は明暦の大火に見舞われた。亡くなった1658年、松尾芭蕉はまだ数え15歳の少年だった。
年齢で見る生涯
日付はDBと同じく当時のイングランドのユリウス暦による(グレゴリオ暦の誕生日は1599年5月5日)。
軍人としての経歴は43歳から始まる。それから11年で、地方の一議員から国家元首にまで上りつめた。
人物のつながり
エピソード
統計学に名を残した一文(51歳・1650年)
1650年8月3日、スコットランドに攻め込んだクロムウェルは、国王派と手を組んだスコットランド教会の総会に手紙を送り、「キリストの慈悲にかけて、あなた方が間違っている可能性もあると考えてみてほしい」と訴えた。訴えは退けられ、1か月後にダンバーの戦いが起きる。この一文は300年以上のち、統計学者デニス・リンドリーによって「クロムウェルの法則」と名づけられた。確率を0や1と決めつけると、どんな証拠が出ても考えを改められなくなる、という戒めである。
護国卿、自ら手綱を取って馬車から落ちる(55歳・1654年)
1654年9月29日、クロムウェルは秘書官サーローらとハイドパークで食事をしたあと、オルデンブルク伯から贈られた6頭立ての馬車を自分で操ってみた。ところが鞭を当てすぎて馬が暴走し、御者台から投げ出されて足を引き具に取られ、引きずられた。ポケットの拳銃まで暴発したが、打ち身程度で済んだという。王党派は「次は処刑台行きの荷車から落ちる」と皮肉る歌を作ったと伝えられる。
娘の結婚式で大はしゃぎ(58歳・1657年)
音楽嫌いの堅物と思われがちだが、クロムウェルは音楽好きで、オックスフォードの大学のオルガンをハンプトン・コートに運ばせていた。1657年11月の末娘フランセスの結婚式では、48人のバイオリンと50人のトランペットが呼ばれ、男女で組むダンスが朝5時まで続いたと当時の通信は伝える。王党派リチャード・シモンズの覚え書きによれば、護国卿は婦人たちの晴れ着に甘い酒をまき散らし、花婿のかつらをむしり取って暖炉に投げ込むふりをし、結局その上に座ったという。
出典・参考資料