ジュール・マザラン
マザラン
Mazarin , Jules
1602年7月14日 – 1661年3月9日 (58歳没)
ジュール・マザランの人物情報
イタリア生まれのフランスの政治家、枢機卿。教皇庁の外交官としてフランスとスペインの和平に関わり、リシュリューに才を認められてフランスに帰化した。1642年にリシュリューが亡くなると国務会議に入り、翌年からは幼いルイ14世の母后アンヌ・ドートリッシュのもとで首席大臣を務めた。外国人の宰相として「フロンドの乱」で激しく憎まれたが、乱を乗り切り、1659年のピレネー条約でスペインとの戦争を終わらせた。蔵書を学者に公開し、フランス最古の公共図書館とされるマザリーヌ図書館の基礎を築いた人物でもある。日付はグレゴリオ暦で記す。
同時代の人物
マザランが生まれた1602年には、日本で狩野探幽が生まれている。探幽は3月、マザランは7月の生まれで、探幽が4か月ほど年上になる。主君のルイ13世はマザランより1歳上だった。
1599年生まれの2人とは、晩年に縁ができた。オリバー・クロムウェルとは1657年に同盟を結んでいる。スペインの宮廷画家ディエゴ・ヴェラスケスは、1660年6月にピレネー条約の舞台フェザント島で両国王が対面したとき、スペイン側の会場を整えた。その2か月後にヴェラスケスは亡くなり、マザランも翌年に世を去った。
年齢で見る生涯
宰相の座にあった18年余りは、リシュリューとほぼ同じ長さである。
人物のつながり
エピソード
「パーチェ!パーチェ!」両軍の間に飛び込む(28歳・1630年)
1630年10月下旬、北イタリアのカザーレで、城を救いに来たフランス軍と包囲するスペイン軍が今にもぶつかろうとしていた。教皇使節団の書記マザランは両陣営を行き来して休戦の条件をまとめ、合戦の直前に両軍の間へ駆け込んだ。帽子を振りながら「パーチェ!パーチェ!(和平だ)」と叫んだと伝えられる。馬ではなくロバに乗り、十字架を掲げていたとする話もある。休戦は両軍の将軍の間で結ばれ、無名の若い外交官の名はヨーロッパに知られることになった。
自分の首の賞金を、自分の蔵書で払わせる(49歳・1651〜52年)
マザランの屋敷の図書室は、1644年の『ガゼット』によれば毎週木曜、朝から晩まで学者たちが詰めかける場所だった。ところが1651年12月29日、パリ高等法院はマザランを捕らえた者に10万リーヴルを与えると決め、その賞金を彼の蔵書の売り上げから払うとした。売却は翌年1月から始まる。マザランは手紙で、5万冊を超えるこの蔵書は「100万の金を積んでも50年では集められない」と怒った。司書ノーデも「一か月にわたり、ひと包みずつ売られた。今度は書棚や天井まで売ると息巻いている」と書き送っている。
「これをみな置いていかねばならぬ」(58歳・1661年)
死の1〜2か月前、マザランは医師から余命2か月と告げられた。数日後、若い秘書官ブリエンヌが宮殿の小回廊にいると、スリッパを引きずる音が近づいてきた。とっさにタペストリーの陰に隠れると、病み衰えた枢機卿は美術品の前で立ち止まるたびに「これをみな置いていかねばならぬ」とつぶやいた。気づかれて腕を貸すと、コレッジョやティツィアーノの絵を指して「さらば、愛した絵たちよ。ずいぶん金もかかった」と言ったという。ブリエンヌが後年書いた回想録にある場面である。
出典・参考資料