ジャン・バティスト・コルベール
コルベール
Colbert, Jean-Baptiste
1619年8月29日 – 1683年9月6日 (64歳没)
ジャン・バティスト・コルベールの人物情報
フランスの政治家。ランスの商人の家に生まれ、宰相マザランの私財を管理して頭角を現した。1661年、財務卿フーケの失脚に深く関わり、ルイ14世の親政のもとで財務総監、王室建築総監、海軍・宮内担当の国務卿を兼ねた。国内産業の保護と輸出の振興を軸とする経済政策は「コルベール主義」と呼ばれる。ゴブラン織の王立工房を整え、1666年には科学アカデミーを創設した。一方、晩年には奴隷制を定めたカリブ植民地向けの法令の準備を進め、この法令は死後の1685年に「黒人法典(コード・ノワール)」として発布された。日付はグレゴリオ暦で記す。
同時代の人物
コルベールの2歳下には、フーケの庇護を受けた詩人ラ・フォンテーヌがいる。フーケが捕らえられると、ラ・フォンテーヌはその釈放を王に願う詩を書いた。同じ1661年の事件を、2人は正反対の側から見ていたことになる。4歳下のパスカルは、コルベールが財務の実権を握った翌年の1662年に39歳で亡くなっている。
日本では、浮世絵の祖とされる菱川師宣が1歳上にあたる。コルベールが亡くなった1683年には、井原西鶴が数え42歳、松尾芭蕉が数え40歳だった(日本人は数え年で記す)。
年齢で見る生涯
政治の表舞台に立ったのは40歳を過ぎてからで、それから22年間、休みなく働き続けた。
人物のつながり
エピソード
「チュイルリーの門を閉めに行こう」(50代前半・1670年代初め頃)
ペローの回想録によれば、チュイルリー庭園の植え替えが終わると、コルベールは「門を閉めに行こう。この庭は王のために守り、民衆に荒らさせてはならない」と言い出した。ペローは「小さな子どもでさえ花に触れません」と反論し、「王の庭が広いのは、王の子どもたち(国民)がみな散歩できるようにするためでしょう」と続けた。コルベールは笑い、居合わせた庭師たちに被害はあるかと尋ねる。答えは「まったくありません。皆さん歩いて眺めるだけです」。結局、門を閉める話は二度と出なかったという。
「修業代は払わねばならぬ」(47歳以降・1666年以降)
コルベールは、科学アカデミーに招いたオランダの学者ホイヘンスをヴェルサイユに案内したことがある。ホイヘンスは池のそばに建つ高い塔に目を留め、用途を尋ねた。ポンプで池の水をいったん塔の上へ上げ、そこから貯水槽へ送るのだと聞くと、「ポンプで直接送れば済む。塔はまったく無駄な出費だ」と言い切った。ペローがこれを伝えると、コルベールはあっさり認め、「仕方がない、修業代は払わねばならぬ」と答えたという。これもペローの回想録にある話である。
手をこすり合わせなくなった大臣(50代・1670年代)
ペローは、ある時期を境にコルベールが変わったと書いている。以前は執務室に入ると、これから片づける仕事がうれしそうに手をこすり合わせて机に向かっていた。ところが、オランダとの戦争のために王が年6000万リーヴルの臨時戦費を求めると、コルベールは一時引退も考えたとされる。その後は、ため息をつきながら席に着くようになった。気さくだった人柄も気難しくなり、王室建築の仕事も以前ほどは進まなくなったという。
出典・参考資料