松尾芭蕉
マツオバショウ
Matsuo, Basho
1644年 – 1694年11月28日 (約50歳没)
松尾芭蕉の人物情報
日本の俳諧師。「俳聖」と称される。
1644年(寛永21年)現在の三重県伊賀市に生まれる。北村季吟に師事した。30歳で江戸に出て、1680年深川に草庵を結ぶ。
当時は言葉遊びの範疇を出なかった俳諧に高い文芸性を与え、「蕉風」を確立した。日本各地を旅し、『奥の細道』『更科紀行』などの名作を生んだ。
マツオバショウ
Matsuo, Basho
1644年 – 1694年11月28日 (約50歳没)
日本の俳諧師。「俳聖」と称される。
1644年(寛永21年)現在の三重県伊賀市に生まれる。北村季吟に師事した。30歳で江戸に出て、1680年深川に草庵を結ぶ。
当時は言葉遊びの範疇を出なかった俳諧に高い文芸性を与え、「蕉風」を確立した。日本各地を旅し、『奥の細道』『更科紀行』などの名作を生んだ。
同時代の人物
芭蕉が生まれた1644年(寛永21年、12月に正保と改元)の前後には、元禄文化の担い手が続けて生まれている。2歳上には浮世草子の井原西鶴と和算家の関孝和、9歳下には近松門左衛門がいる。俳諧から出発した西鶴は散文へ、芭蕉は発句と俳文へと、同じ俳諧の世界から別々の道に進んだ。西鶴は1693年、芭蕉はその翌年に世を去った。
海の向こうでは、アイザック・ニュートンが芭蕉の1歳上にあたる。『おくのほそ道』の旅に同行した河合曽良は5歳下だった。芭蕉が亡くなった1694年には、浮世絵の祖とされる菱川師宣も江戸で亡くなっている。
年齢で見る生涯
年齢はすべて数え年で、月日は旧暦。江戸に出てから深川に移るまでの8年あまり、芭蕉は俳諧だけでは暮らせず、町の仕事も引き受けていた。後半生の大きな旅は、41歳から51歳までの10年に集中している。
人物のつながり
エピソード
「桃青方へ申し渡すべし」――町触に載った俳人(37歳・1680年)
深川に移る前の芭蕉は、神田上水の仕事にも関わっていた。弟子の森川許六は『風俗文選』に、芭蕉が小石川の水道を修め、4年で成し遂げたと記している。江戸後期の考証家・喜多村信節の『筠庭雑録』には、延宝8年6月に町々へ出された触れが書き写されている。2日後に神田上水の水源で総ざらいを行うので、請け負いの話がついている町は「桃青方へ」申し伝えよ、という内容だった。工事の日は水が止まり、雨なら延期とある。後に俳聖と呼ばれる人の俳号が、水道の掃除の連絡先として書かれていたのである。
流行り歌だらけのデビュー作『貝おほひ』(29歳・1672年)
芭蕉が初めてまとめた本は、上品な句集ではなかった。伊賀上野の天満宮に奉納した『貝おほひ』は、発句を左右30番に組んで勝ち負けを判じた句合である。芭蕉は当時「宗房」と名乗っており、判定の言葉(判詞)を書いた。辞典によれば、この判詞には当時の小唄や流行語、町の荒くれ者の言葉づかいである「六方詞」がふんだんに使われている。芭蕉はこれを故郷の天神に納めて江戸へ旅立った。わび・さびの芭蕉は、最初はにぎやかな言葉遊びの名手だったのである。
門人がくれた一株の芭蕉(38〜39歳・1681〜82年)
深川の草庵に移った翌年の春、門人の李下が芭蕉(バショウ科の植物)を一株贈った。庭に植えた芭蕉はよく茂り、草庵は「芭蕉庵」と呼ばれるようになる。それまで「桃青」と名乗っていた俳人も、やがて自ら「芭蕉」と号した。後世まで残る俳号は、弟子が贈った一株の植木から生まれたことになる。江東区によれば、芭蕉庵は芭蕉の没後に武家屋敷の中に取り込まれて保存されたが、幕末から明治にかけて失われた。
出典・参考資料