マインデルト・ホッベマ

ホッベマ

Hobbema, Meindert

1638年 – 1709年12月7日 (約71歳没)

オランダ 絵画

マインデルト・ホッベマの人物情報

オランダ黄金時代の風景画家。1638年10月31日にアムステルダムで洗礼を受けた(誕生日は不明)。孤児院で育ち、ヤーコプ・ファン・ロイスダールに学んだ。木立の中の田舎道や水車小屋を、明るい光のなかに描いた。1668年にアムステルダム市のワイン計量官となってからは、制作が大きく減った。晩年の1689年に描いた「ミッデルハルニスの並木道」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)が代表作である。1709年12月7日にアムステルダムで亡くなり、貧しい人として葬られた。生前はほとんど知られず、19世紀のイギリスで高く評価された。

同時代の人物

ホッベマが洗礼を受けた1638年には、フランスでルイ14世が生まれている。市の役人として一生を終えた画家と「太陽王」は同い年である。日本では、井原西鶴と和算家の関孝和が4歳ほど年下にあたる。関孝和は、ホッベマのちょうど1年前の1708年12月に亡くなった。

同じオランダでは、ヨハネス・フェルメールが6年前の1632年10月31日にデルフトで洗礼を受けている。洗礼日は偶然にも同じ10月31日である。同じ1632年には、アムステルダムで哲学者のバールーフ・デ・スピノザも生まれた。

年齢で見る生涯

誕生日がわからないため、洗礼日(1638年10月31日)の少し前に生まれたとして満年齢を計算した。

  • 15歳ごろ(1653年) 弟と妹とともにアムステルダムの孤児院に入る
  • 16〜17歳(1655年) 孤児院を出る。このころロイスダールに弟子入りしたとみられる
  • 30歳(1668年11月2日) 4歳年上のエールチェ・ヴィンクと結婚する。同じ年、市のワイン計量官に任じられる
  • 50〜51歳(1689年) 「ミッデルハルニスの並木道」を描く
  • 71歳(1709年12月7日) アムステルダムで死去。14日、西教会(ヴェステルケルク)の墓地に貧しい人として葬られる
  • 没後(1850年) オランダ王ウィレム2世の旧蔵品の競売で、水車小屋の絵が2万7,000ギルダーと、風景画の最高値で売れる

年記のある作品は、ほとんどが19〜31歳の約12年間のものである。その後の約40年は役人として暮らした。競売に名前が再び出始めるのは1840年ごろ、死後130年もたってからだった。

人物のつながり

  • ヤーコプ・ファン・ロイスダール:師。1660年7月8日の証言で、ホッベマが自分のもとで「数年間仕え、学んだ」と述べた。弟子だったことを示す文書はこれしかない。1668年のホッベマの結婚では立会人を務めた。
  • レンブラント・ファン・レイン:ホッベマが最期に住んだローゼンフラハトの家は、かつてのレンブラントの家の向かいにあった。2人とも西教会に葬られている。
  • ジョン・コンスタブル:19世紀イギリスの風景画家。ホッベマの絵から影響を受けたとされる。

エピソード

役人の職には「年250ギルダー」の約束が付いていた(30歳・1668年)

妻のエールチェは、アムステルダム市長レインストの家の女中だった。結婚した年、ホッベマはワイン計量官(ワイン樽の量を測り、酒税のもとを決める役人)の職を得る。『新オランダ人名辞典』(1937年)によれば、この職は市長家の別の女中サールチェ・ファレンテインの仲立ちで手に入れたものだった。ホッベマは11月25日の証書で、彼女が独身のうちは、そして結婚したら夫が市の職を得るまでは、毎年250ギルダーを払うと約束している。ホッベマはこの職を生涯手放さず、暮らしの支えにした。

並木を植えた年と灯台が決め手(50〜51歳・1689年)

「ミッデルハルニスの並木道」の年記は、3桁目の数字が読みにくい。ホッベマは結婚後ほとんど描かなかったと考えられていたため、「1669年」と読む説が根強かった。決着をつけたのは19世紀末の村長ウルボ・ミースである。村の古文書から、並木が1664年に植えられたことを突き止めた。5年でここまで育つはずがない。さらに、木々の間に描かれた船の目印の火の灯台は、1682年に建てられたものだった。こうして1689年説が決まった。

名画を「新しい絵2枚」と交換した村(没後・1822年)

この絵は1782年、近くの村の元書記官の遺品競売で、25ギルダー余りで村長に買われたとみられ、村役場に飾られた。1822年5月8日、村議会は、地元出身の画家ファン・デル・コーフが申し出た交換を認める。差し出されたのは、彼の風景画1枚と、ホッベマの絵の模写1枚である。議事録には「新しい美しい絵2枚でも部屋の飾りとして劣らず、片方は同じく村を描いている」という理屈が残る。原画はイギリスに渡り、1871年にナショナル・ギャラリーの所蔵となった。地元の郷土史家は「村役場の最大の失敗」と書いている。

出典・参考資料

  • Wikipedia(nl)「Meindert Hobbema」「Het laantje van Middelharnis」、Wikipedia(en)「Meindert Hobbema」「The Avenue at Middelharnis」(1782年の村の購入、1822年の交換、1871年のナショナル・ギャラリー入り、1669年説)、Wikipedia「メインデルト・ホッベマ」(日本語での記述)、National Gallery(London)「Meindert Hobbema (1638 - 1709)」(孤児院、1655年の弟子入り、1668年の結婚と職、1704年の妻の死、貧民墓)、ECARTICO(Universiteit van Amsterdam)person 3731(洗礼日、死去日、1668年11月2日の結婚、両親。典拠は Stadsarchief Amsterdam, DTB-registers)、RKD Studies「Dulwich Picture Gallery I – Meindert Hobbema」(死去日、1850年のウィレム2世旧蔵品の競売、コンスタブルらへの影響)、Essential Vermeer「Meindert Hobbema」(J. Nash『The Age of Rembrandt and Vermeer』1972年による。1660年の証言、死去日)、Leiden Collection「Johannes Vermeer」(フェルメールの洗礼日)、人名辞典DB(ルイ14世、井原西鶴、関孝和、フェルメール、スピノザ、ロイスダール、レンブラント、コンスタブルの生没年)
  • J.M. Blok「Hobbema (Meindert)」『Nieuw Nederlandsch biografisch woordenboek』第10巻(1937年)371〜373頁(DBNL、https://www.dbnl.org/tekst/molh003nieu10_01/molh003nieu10_01_0560.php)。孤児院、1660年・1661年の記録、結婚、ワイン計量官の職と1668年11月25日の証書、長男の洗礼、妻と娘の死、ローゼンフラハトの家、貧民としての埋葬、1840年ごろからの再評価。典拠に H.F. Wijnman(『Oud-Holland』1932年、179〜180頁)、A. Bredius『Künstlerinventare』を挙げる
  • Rijksmuseum「Jacob Isaacksz van Ruisdael」(Nederlandse meesters)。1660年7月8日の証言の文言と、1668年の結婚の立会人
  • 「Meindert Hobbema」『De Vlaamsche School』第22年(1876年、DBNL)。1668年11月2日の結婚登録の記載、1709年12月14日の西教会墓地への埋葬
  • J.C. Both「Het Laantje van Middelharnis」(Streekarchief Goeree-Overflakkee、https://cuatro.sim-cdn.nl/streekarchiefgo/uploads/het-laantje-en-andere-schilderijen.pdf)。年記の謎と村長ミースの調査、1782年の競売、1822年5月8日の村議会議事録の翻刻